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「あかんべえ」を解散した谷村ヨシオが新しくバンドを作った。ボーカルに吉岡ひろし、ベースに元田舎者の加治、ギター・松岡そしてドラムに谷村の相棒というべき存在の霜田賢。「ミルキーパトロール」である。照和デビューをはたして一躍人気バンドになった。なんたってボーカルのひろしが良い。
ステージのノリは山善に劣らない。明るく楽しいポップなロックバンドと言ったところかな。とにかく、赤鉛筆を耳に挟みスポーツ新聞を持って、競艇通いをしているなどと、決して言ってはいけない雰囲気のバンドになったのである。
呉服町にあった博多大丸が天神に進出、西日本新聞社のビルに華々しくオープンした。このオープニング・イベントでミルキーと一緒になった。「あかんべえの時に比べるとめちゃくちゃ派手なバンドになったね。」「そうか?俺はなんも変わっとらんちゃけど。」「その衣装から派手になっとるやん。」地味な服からカラフルな衣装になった。変わらないのは賢ちゃん。彼の言動は本気か嘘か判らないところがある。「ドラムは後ろのほうにおるけん、目立たんやろ。なに着とっても同じやもんね。」谷村をなだめ、若いメンバーを諭す。彼の存在がバンドの和をつくる。飄々としてマイペース。出身が鳥取県。うちの聖雅と一緒である。わが道を行くマイペースの聖雅。性格や雰囲気が似ているようで、似ていない。が、なんとなく同じ匂いがする。
吉岡ひろしは斎藤富雄(後にラム)と「バブスターキー」を組んで、照和のステージで歌っていた。多分、みんなは覚えていないだろうな。それくらい印象の薄いバンドだった。一度しかステージを見ていないのに覚えているのが不思議である。ひろしと関わる予感があったのかもしれない。どういう経過で谷村とひろしがバンドを組むようになったかは知らないが、ミルキーパトロールの出現で九産大のロックバンドが活躍を見せ始めた。九産大の雄である谷村の下に「ラザマナス」「ジャップ」「シュール・モア」などが照和に出演し、一大勢力と化した。そして彼らは異常に福大のフォークバンドに敵愾心を燃やしていたのである。…この時期からフォーク喫茶「照和」という名は消滅し、ライブハウス「照和」と呼ばれるようになった。
谷村ヨシオは後輩バンドの面倒をよく見ていた。彼らも谷村を慕っていた。ロックバンドでツッパってはいたものの学校のクラブにある年功序列は守っていた。谷村と親しかったこともあり、私が年長者ということでそれなりの態度で接してきてくれた。
ラザマナスのベース重井。アフロへアにタンクトップがトレードマーク?やせ細ったバンドマンの中、重井一人、健康優良児のガタイの大きさを誇っていた。彼は卒業した後、すし職人になるため、福岡市の南区にあるすし屋で修行を始めた。修行中の彼に会いに何度か店に顔を出した。そして谷村、重井、緒方丈二とそれぞれ夫婦連れで行った湯布院旅行は今でも懐かしい思い出である。壱岐の実家から直送される魚を使った「寿司しげい」が開店した時はともに喜んだりもした。重井の店は順調に繁盛して行った。そして私がオーストラリアに住み始めた数年後、重井の訃報が届いた。40になったかならないかの若さであった。
ステージのひろしは輝いていた。ミルキーの曲は彼のオリジナルを中心にしていた。「カントリーボーイ」は名曲中の名曲。バンドの演奏も申し分なかった。反面、ステージを下りたひろしは谷村の心配の種でもあった。きかん坊の甘えっ子である。落ち込んだりはしゃいだり、真面目だったり、悪ぶったり…。憎めない性格で人に好かれていた。
その後「ミルキーパトロール」は谷村、賢ちゃん、ひろし以外のメンバーが入れ替わり、立ち代わりで交代していった。そのため、その輝きは薄れていった。ついには母体を残したまま「中洲ブルーロマン」と称してステージに上がっていた。これは、これで楽しいバンドであった。
あとがき
去年の暮れ、岸川さんの一周忌「勝手に追悼ライブ」で池浦均が「カントリーボーイ」歌った。「今年はひろしの13回忌だったんです…」吉岡ひろしも30代の半ばでこの世を去った。その年、帰国する機会があったのでひろしの霊前に手を合わせ、別れを言うことが出来た。「門田さん、オーストラリアに呼んで。行きたいっちゃんね、俺。」生前のひらしから何度もこう催促されていた。「来るならおいで、歓迎するから」と適当に返事をしていた。それが彼と最後に交わした言葉になった。久保タカシがバーバリアンズでひろしの「カントリーボーイ」を英訳して歌っていた。均君はひろし、久保の思いを込めて「カントリーボーイ」を歌う。その時、それを聞く私たちの中に久保とひろしが帰ってくる。
いちろう 2008年3月24日
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