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「福岡発の音楽文化」と言ったのは西田恭平。恭平いわく「福岡から全国に発信したものは西鉄ライオンズと照和を中心とした音楽文化です。」
福岡は「日本のリバプール」と呼ばれるようになっていた。しかしそれは福岡の放送局各社がアマチュア・バンドを後押ししていなければ、福岡はただの九州の田舎の都市のままだっただろう。バンドを組んで練習を重ねる。そしてバンドが目標とするのは、人前で歌うこと、ラジオに出ること、テレビに映ること…そのすべてが福岡では叶えられた。日本中の都市でこれだけ恵まれた環境は類を見ないのではないかと思う。こういう環境があったから数多くのバンドが生まれ、育ち、プロとして羽ばたいていった。
FBS福岡放送が開局した。ラジオはなくテレビだけの放送局である。テレビ専門の放送局はTNCテレビ西日本があった。テレビの放送はなかったがTNCは「レッツゴー・フォーク」(福岡・明治生命ホール)と「サンデー・フォーク」(北九州・小倉井筒屋ホール)で毎月3バンド、時にはゲストにプロを招いてコンサートを主催していた。ところが福岡放送は大胆にもアマチュア・バンドのためのテレビ放送をはじめた。「サウンド・インパルス」である。
司会はなぎら健壱…。夢本舗(旗揚げコンサート「夢でよかった」を九電体育館成功させた)が高田渡となぎら健壱を呼んで行われた「照和」でのコンサート。甲斐よしひろと我々「妙安寺ファミリーバンド」が前座として出演した。地下の控え室に入ると一升瓶が乱立。二人のために用意された酒である。…まぁ夢本舗のスタッフも飲んでいたが。「君たちなんというバンド?」「妙安寺ファミリーバンドです。」「あっそう、良い名前だね。まず飲もうか?」なぎら健壱の酒は陽気である。隣の高田渡はもうほとんど酩酊状態。「大丈夫なんですか?」「えっ、何が?あぁあ、渡さんね。大丈夫。大丈夫。いつもこうだから。」高田渡はもう半分は寝ている。寝ながらもまだ飲んでいる。
なぎら健壱は一升瓶を横において、酒を飲みながらのステージ。彼の代表曲「悲惨な戦い」をはじめて生で聞いた。聞きたかった歌であるが…感動はなかった。ステージが終わるころには一升瓶が2本。めちゃくちゃ酒が強い。テンションは高いが酔っ払いではない。元気よくステージを終えた。問題の高田渡登場。ステージに出てきていすに座るまで時間がかかる。呂律が回らない。来ているお客さんもこんな高田渡のステージを知っていて、それなりに楽しんでる風ではある。ステージで下呂を吐いたとか、唄の途中で寝てしまったとか、彼の酒にまつわるステージでの逸話は事欠かない。この時も多少居眠りをしたような…
「サウンド・インパルス」ディレクターは奥田耕介氏。福岡少年文化会館ホールでの公開放送。土曜日の夕方に30分番組で放映された。当日は2週間分を収録する。2週続けて出演ということになる時は、衣装を変えたりした。バンドの合間にどういうわけか吉本興業の若手芸人が出演していた。楽屋でなぎら健壱に会った時、「照和」での話をした。「はいはい、そいうこともありましたねぇ。それじゃ再会を祝して…。(マネージャーに)ほらほら、お酒買ってきて。」「えっ、酒屋って近くにあるんですか?」少年文化会館の向かいに酒屋がある。「目の前にありますよ。」と至らないことを教えたのは照和の酒豪、かたつむりの永隈晋一。…ワシだったかな?ともかく晋ちゃんとワシはなぎら健壱の好意を無にすることなく、素直に受けた…ほどほどに。
酒の所為ではないだろうけど司会がなぎら健壱から元ピエロの上野俊二に代わった。ピエロを辞めた後でも俊二の人気は絶大だった。アマチュアながら初めての司会業も無難にこなしていたと思う。我々は多い時で月に一度、少なくても二ヵ月に一度は呼ばれて出演していた。
あとがき
この「サウンド・インパルス」がいつ始まっていつ終了したか記憶が定かでない。…一年もつづいたかなぁ?タカオに確認しなければ。土曜日の夕方5時前後という時間帯。最初は物珍しさもあって、聴視者もそれなりにいたのだろうが、基本的にこの時間帯、対象になる若者は家に帰っていないのだ。KBCテレビで長沢純が司会、アマチュア時代の4人の時のチューリップがレギュラー出演していた「パンチヤング福岡」という番組があった。福岡のローカル局で若者を対象にした初めてのテレビ番組だったと思う。この中にもアマチュア・バンドのコーナーがあった。私はバンドを組む前にソロで出たことがある。…なんと無謀なことをしたんだろう。どんたくのお祭り広場の舞台に飛び入りするような勇気と度胸、開き直りがあれば、誰でも参加させる土地柄なのだ。このように福岡のアマチュア・バンドはメディアからも育まれていったのである。
いちろう 2008年3月28日
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