1970年物語−2
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1970年物語(season2)

01  菩提寺
02  Beginner's Luck
03  ミルキー・パトロール
04  サウンド・インパルス
05  この木何の木
06  ハッピー・フォーク
07  東 京
08  岸川さんのユウウツ
09  オニマ〜ルです。
10  唐津・虹の松原
11  リアカー部隊
12  カウントダウンライブ
13  小松ヶ丘を後にして1
14  小松ヶ丘を後にして2
15  城島高原キャンプ場
16  居候
17  再出発
18  渡辺プロダクション
19  解散.コンサート
20  風来坊
21  最後のマネージャー
22  照和出演バンド一覧-1
23  照和出演バンド一覧-2
24  照和出身ミュージシャン
25  照和のオーディション
26  シャイアン族が行く
27  俺はツヨシだ!
28  追い詰められるライブハウス
29  キヨさんに会ったらよろしく
30  泣き虫タツヤ
31  森山達也
32  ロック・ディの功罪
33  風の中のノバ
34  終焉の足音
35  1978年11月30日木曜日
<最終章>
01 1979年
02 伝説のはじまり
03 コンサート
04 同窓会コンサート
05 照和伝説同窓会コンサート1




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 第11回 リアカー部隊


高校時代は実家の唐人町から学校のある西新まで歩いて通学していた。地行、今川、西新とバス停は三つほど。西新の海側は修猷館高校、西南学院中学・高校・大学、百道中学などがある文京地区である。百道の浜には海水浴場もあった。高校時代のひと夏、ボート屋で住み込みのバイトをした。この頃から海は汚れ砂浜は浸食され海水浴客も少なくなってきた。冬の「海の家」は九州場所でやってくる相撲部屋が入っていた。西鉄ライオンズの寮もあった…。今は埋め立てられ福岡タワー、福岡ドームがシンボルとなっている。
授業を抜け出して商店街に行くと「蜂楽饅頭」「まあちゃんうどん」ちょっと離れて「しばらくラーメン」などで腹を満たしていた。そして商店街に所狭しと居並ぶリアカー部隊。
福岡でリアカー部隊といえば「西新!」なのである。近郊の農家が取れたての作物を運んできたのがきっかけとなり西新の名物となった。あとは、そう長浜から始まって全国区になったラーメンの屋台もリアカー。日本で一番多くリアカーが使われている街が福岡である。…まぁ、そうじゃないかなと思っているだけで。

中州の北側、昭和通りに近い、賑やかな場所からちょっと離れたところに「アップル・ハウス」というパブがあった。ここで週1回、ライブをやることになった。しかし、ここはライブハウスではないので器材が置いてない。辛うじてボーカル用の器材とマイクが数本用意されている。我々が演奏に必要なギターアンプ、ベースアンプ、ドラムセットは持ち込みとなる。その器材は照和の地下の控え室に置かしてもらっていた。天神から中州まで、距離的にはたいしたことはない。が、どうやって運ぶ?

アコースティックからエレキに変えた時、みんなと相談して器材をまとめ買いをした。ギターアンプ3台、ベースアンプ、ドラムセット…数十万の買い物である。「払えるとや?」みんなの心配はそこにある。「うーん、必要なモンだし…なんとかなるやろう。そのかわり、払い終わるまで照和のギャラは全額、そのほかギャラは半分没収。バンドを解散しない、抜けないこと。そして、どんな仕事でも文句は言わないこと。」

天神のヤマハに行ってワコに相談した。ワコをはじめこの店の女の子達は、弦を安くしてくれたり、ピックを呉れたりと我々アマチュアバンドに親切だった。「わしらでローン組めるやろうか?」自慢じゃないが無職と学生のバンド、しかも定期収入はない。「お父さんに保証人になってもらえるなら、なんとかなるよ。」「やっぱり、保証人がいるよね。親父かぁ…」勝手に家を出てから随分と帰っていない。…親不孝ついでじゃ、行くしかない。

「いくらいるとか?」「はぁ?いや、お金じゃなくて保証人。」親父の前にローンの申請書を出す。「こげん買うて、払えるとか?」「払えん時のための保証人タイ。」「ばかたれ!ワシは保証人は好かん。」…昔、保証人になって痛い思いをした経験があるようだ。明治生まれの親父はローンが嫌い。しつこく金を出すといい始めた。「いや、これはバンドのみんな物やけん、みんなで払う。お金はよかけん保証人になって…下さい。」
「お前、メシは食うていけようとか?」卒業しても職につかず音楽三昧の放蕩息子、小言のひとつでも聞かされると思って来たけれど。「アルバイトもしようし、みんなで生活しようけん、なんとかやって行きよう。」「ふーん、そうか」普通の親ならここで放蕩息子でも久しぶり会ったのだから小遣いを渡すところなんだけど…期待した私が甘かった。

天神から中州まで、距離的にはたいしたことはない。が、器材を抱えて2回も3回も往復すると重労働である。しかもステージ前と終わってからも。「ちょっと堪らんなぁ、これ。なんとかせんといかんバイ。」「なんとかせんとて言うてもなぁ…」昔みたいに田原に気安く頼むわけにはいかない。気のいい奴だから頼んだら来てくれるだろうけど、毎週となるとそうはいかない。「そうたい!良いモンがあった!」「なんや?良いモンて?」「リアカーたい。リアカー。」
福岡市の日蓮宗のお寺が集まって毎年10月のある日、西公園から日蓮上人の銅像がある東公園まで万灯行列を行っていた。檀家さんも多数参加して提灯をさげ、うちわ太鼓を叩きながら練り歩くのである。最近は交通事情の関係で…どうなっているのかなぁ?その万灯を乗せて引くためにお寺にリアカーがあった。

器材のほかに多数の楽器がある。私はギターが2本、藤永はギターとバンジョー、聖雅はフィドル、フラットマンドリン、スティールギター…かしこい聖雅はハードケースを改造して3種類の楽器をまとめて収納、ただし重かった。仲西はベースとスティック。久保はショルダーケースのギターが1本…なんで君だけ楽しようと?聖雅にリアカーを引かせる…腰が高すぎて前に進まない。藤永に引かせる…腰が弱すぎて上手くいかない。仲西…力はあるが要領が悪い。久保…はじめから引く気なし。「ええーい、下手くそな奴らめ!ワシが引く!」若い頃から万灯行列で鍛えた技。天神から中州まで、たいした距離じゃない。

あとがき

買った器材に「妙安寺ファミリーバンド」とバンド名前を書くことにした。ロゴは私が考えて描いた。結構、こういうことが好きなのだ。古くは「フラワージャンボリー」のステージに飾る看板とか「21人の晩餐会」などコンサートのチケットやポスターも書いた。さてバンドのロゴをコピーして、どうやって器材に書き込むか?人間、得手不得手がある。こういうことは聖雅が得意だった。手作りのバッジやなにやら工作物を作っては女の子に売ったり、あげたりして人気を稼いでいた…まぁ彼の努力の賜物だから。有名バンドになっていたらキャラクターグッズで聖雅は大儲けしていたかもしれない。
困ったのはリアカーの保管場所である。週に一度しか使わない。毎回返しに行くのはしろしい。これも照和に置くしかない。ビルの玄関…みんな裏口と言っていた。を入って地下にいく階段の踊り場に目立たないように(…無理やろ)立てかけて置いた。すぐにクレームが来た。
「最悪を予測して最善を尽くす」リアカーはビルの外に鎖をつけて放置されるようになった。

いちろう 2008年7月12日





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