1970年物語−2
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1970年物語(season2)

01  菩提寺
02  Beginner's Luck
03  ミルキー・パトロール
04  サウンド・インパルス
05  この木何の木
06  ハッピー・フォーク
07  東 京
08  岸川さんのユウウツ
09  オニマ〜ルです。
10  唐津・虹の松原
11  リアカー部隊
12  カウントダウンライブ
13  小松ヶ丘を後にして1
14  小松ヶ丘を後にして2
15  城島高原キャンプ場
16  居候
17  再出発
18  渡辺プロダクション
19  解散.コンサート
20  風来坊
21  最後のマネージャー
22  照和出演バンド一覧-1
23  照和出演バンド一覧-2
24  照和出身ミュージシャン
25  照和のオーディション
26  シャイアン族が行く
27  俺はツヨシだ!
28  追い詰められるライブハウス
29  キヨさんに会ったらよろしく
30  泣き虫タツヤ
31  森山達也
32  ロック・ディの功罪
33  風の中のノバ
34  終焉の足音
35  1978年11月30日木曜日
<最終章>
01 1979年
02 伝説のはじまり
03 コンサート
04 同窓会コンサート
05 照和伝説同窓会コンサート1




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 第13回 小松ヶ丘を後にして…(1)


天神から福大行12番のバスに乗って小松が丘で降りる。「聖雅、バス代一緒に払っといて。」降りる間際に久保が聖雅に声をかける。「あっ、聖雅さん、ボクの分もお願い。」とカツ。「はい、解りました。」と聖雅は快く答える。
聖雅が「あっ、これ、僕とカツと久保さんの分です。」と運転手さんにそう言って、三人分の運賃を料金箱に入れる。「はあ…」どう反応するべきか戸惑う運転手。そして追い討ちをかけるように、久保が聖雅の後ろから「僕が久保です。」と運転手さんに会釈してバスを降りる。続いてカツも「ボクがカツで〜す。」これをきっかけに、この遊びを照和の帰りに毎週やっていた。最後はメンバー全員、バス代を一緒に払って、みんながそれぞれ名前を言ってバスから降りていった。照和のギャラはこの往復のバス代で消えてしまう…。

カツと聖雅の卒業を機に、小松ヶ丘の合宿所を引き払うことにした。いつ東京に呼ばれてもいいように、身辺整理の一環である。73年春から丸3年間、みんなとここで過ごした。あっという間の3年間だった…。当時バンドは7名。田原を除くメンバー6人で住み始めた合宿所だったが、1年後にミチ(柏村道雄)が2年を2度目の留年が決定した。さすがにミチも青くなった。我々文系と違いミチは工学部で単位の取得が厳しい。学業に専念するためバンドを脱退し、それと同時に合宿所からも出て行った。その半年後、卒業しながらもバンドの行方を見守っていたベースの萩野和人も仲西が後釜にメンバーに入ったので、故郷の鹿児島に就職のために帰って行った。このため入った当初の部屋割りが大幅に変わった。私は一階の3畳の間から2階の奥の4畳半の部屋を一人でゆったりと使うことになった。久保は板間の小部屋から私が使っていた3畳間に引越し。カツは物置を改造し、一人悦に入っていた。聖雅は2階の4畳半をカツが出て行ったのでそのまま一人で使うことになった。それぞれ一人部屋になったのでプライバシーが守られることになった…はずなのだ。

合宿所の功罪。

久保孝司編…私と久保が卒業見込みということで借りた一軒家だが、私は留年した。久保は卒業し、就職もした。社会人となった久保だが気持ちは学生のまま。明日が入社初日だというのにみんなと一緒に夜更かしをする。そして次の夜も…毎晩夜更かしをする。社会人になった自覚がまるでない。案の定、見事一週間で仕事を辞めた。仕送りもなく、収入もない久保は合宿費用が払えなくなった。しかし、久保のすごさはそれを少しも気にすることなく、久保のままだったこと、かな?

門田いちろう編…合宿所で生活するために私は親父に無断で家を出た。つまり家出したのである。無断でなくても家を出た息子に生活費を出すような甘い親父ではない。そのために生活費を稼がなければいけない。せっせとアルバイトに精出すことになった。まぁ、ここが久保と違うところである。バンドの活動に合わせるため、何度か仕事先を変えざるを得ないこともあった。結局、徹夜の仕事がなにかと都合がよく、週の半分働けばなんとか生活費は稼ぐことが出来た。バンドのリーダーとして、合宿所の責任者として万事、みんなに率先して行動をし、示さなければならなかった。こういうことが身についた私がこの合宿所での3年間で一番成長したかもしれない。

愛好会編…我々が部室に顔を出さなくなったこともあるが、みんなが部室代わりに合宿所に遊びに来ることが多くなった。そのためカツや聖雅の72年代(これ、学籍番号です。ちなみに私と久保は69年。井手、藤瀬は70年。ジェフのメンバー山田こうじやジョージ、タカヒロ、鷲谷などは71年)までのメンバーばかりになった。それ以降の新入生は、この合宿所が特殊な環境に見えたか、この先輩達についていけなかったか、誰も居つかなかった。そのためこの時代、合宿所に出入りしていたメンバーは35年の時が経った現在も色褪せることのない人間関係が続いている。

大家編…初めて会った時、久保と私を胡散臭そうに見ていた。「仕事も決まりました。」という久保の言葉でしぶしぶ家を貸すことに同意した。当然6人で住むなどと口が裂けても言えない。家賃は月2万2千円。住めば居住権を持つ住人の強さ。時々顔を出す大家のおばさん。一度も私に微笑んではくれなかったが、立ち退く話をしに行った時、はじめて微笑んだ。
「どうせ壊すからいらない物は置いていっていいよ。」我々は身の回りの物だけを抱えて合宿所を後にした…。1年後、合宿所の一軒家は跡形もなく新築された木造アパートが出来ていた。一部屋2万2千円…この金額が好きなのか?アパートは6部屋…微笑みの意味が解った気がした。

あとがき

と、ここまで書いてタイトル「小松が丘を後にして…」の後ろに(1)を付けた。ということはこの続きを書かなければいけないのである。(2)は小松ヶ丘合宿所での思い出話のオンパレード。前に書いた話と重複する部分もあるかと思いますが…。でも、私は今回書いたようにアルバイト三昧で合宿所にはいなかったことの方が多いかったので、私が知らないことが多々あるような気がする。ミイラ事件、怪?猫話、鷲谷・三島・ジュンのチンくらべ、ダゴ古賀のインキン治療と落書き事件、甲斐の夜話、萩野のサド遊び、うどんウエスト豪遊事件などなど…。このくらいあればなんとか書けるかな、と。

いちろう 2008年8月10日





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