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「お前、どこか行くあてがあるとや?」と私。「あるわけなかろう。」と久保。
藤永、木下、仲西の若手トリオは早々と合宿後の居場所を確保していたが、年寄りコンビは未だ住まいは定まらず…。
「お前はどうするとや?」と久保。「俺?俺は…家に帰るしかないよな。」勝手に家を出て3年、敷居は高いが実家に戻ろうと考えていた。
「そうたいね、お前は地元やし、実家があるもんね…」と寂しげに呟く久保。
「お前もうちの家に来るや?」…あっ、言ってしまった。余計な一言。私一人でも敷居が高いのに久保も一緒だと敷居が二階建てのように高くなるではないか。
「良いとや?俺も一緒に行って良いとや?本当に良いとや?」もう住む所が決まったかのように素直に喜ぶ久保。「う、うん。なんとか頼んでみるけん…」口に出したからには、もう、後には引けない。
「シンコー・ミュージックから面倒を見るという話があったけど、あの事務所にはチューリップ、甲斐バンドがいて、君たちは3番目扱いになるから断ったよ。今、マッド・キャップという所と話を進めているから心配しないで。」という三浦氏…何番目でも良いから、どこでも良いから早く決めてよという心境。「レコードの方だけど、矢野顕子のデビュー曲を作っているから、君たちには悪いけどその後になっちゃう。」と、いうのがこの時の大まかな状況だった。
「そんな訳で、しばらくの間居候させて下さい。多分一ヶ月くらい、長くても二ヶ月くらい、かな?な、久保?」大船に乗った気でいる久保に相槌を求める。「はい、よろしくお願いします。」…その返事は、もうちょっと後やろう。
というわけで、半ば強引にお寺の実家に居候を決め込んだ私と久保。私は昔使っていた奥の部屋に入り、久保は玄関近くの四畳半の部屋。お寺の朝は早い。特に久保が寝る部屋は玄関のそばで檀家さんの出入りや話し声で、私は落ち着かない。久保も最初はそうだったようだ。小松ヶ丘の合宿所とは違い、朝寝することはなかった。まぁ、夜中まで一緒に騒ぐメンバーがいないので夜も早くから寝ていたこともある。早いと言っても普通の生活者には遅い時間であるが…。
照和での最後のライブ、「歌え若者」でのフェアウェル・コンサート、そして地元福岡での旅たちコンサート「妙安寺ファミリーバンド・ビッグ・コンサート」とやるべきことはすべて終わらせた。いつでも東京に行ける準備は整った…。「マッド・キャップの話が駄目になった。キャロルの矢沢永吉がソロ・デビューするのでそちらに力を入れるので、君たちを入れる余裕がなくなった。また、別の所を探すから…」という連絡を最後に三浦氏と音信が途絶え始めた。
先が見えなくなった。レコード・デビューの話が消えたわけでもない。時代の流れに置き去りにされたか?5人のメンバーを抱えることができる事務所はないという話も聞こえてくる。
居候生活も二ヶ月、三ヶ月と過ぎていく。この期間はワシらがみんなの前から消えた時間と比例する。それでもアビーロードでの練習は欠かさずやっていた。曲作りもがやっていた。
「このままじゃ、どうしようもない。ワシらバンドやけんもう一度照和のステージに立とう!」盛大にやったフェアウェル・コンサートの数々。東京に行かなかった恥ずかしさもある。しかし我々は音楽で失敗したわけではない。まだアマチュアのままなのだ。
あとがき
レコード・デビューで矢野顕子に先を越され、プロダクションでは矢沢永吉に蹴飛ばされた。こうして書いてみると、まぁ戦った相手が悪かった。矢野顕子のデビュー曲はそれなりにヒットしたし、永ちゃんはビッグになったし…と、自分を慰め、納得するしかないのだ。
こうして我々は再び照和に出はじめる。そして、この1970年物語第2部の一回目に書いた話に繋がっていく…
いちろう 2008年12月1日
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