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私たちが照和に入るきっかけをくれた当時のマネージャーは広津君。広津君から小宮に変わり、ハリちゃんになった。ハリちゃんのあとを「あかんべえ」の秋吉恵介が引き継いだ。
「門田さん、僕のあとを引き継いでくれんやろうか?」私たちが照和に戻って、しばらくして恵介から声をかけられた。その時のサブは岩切みきよし。まぁサブといっても何もすることはない。なんたってスタッフは二人きりなのである。
「岩切がおるやないね。岩切にさせればいいやない。」「いや、岩切はしたがらんちゃん。」「ワシ、まだバンドがあるし…」「なんかの時は岩切がおるけん、心配ないよ。」
照和の総支配人は藤松マネージャー。フォーク喫茶「照和」を立ち上げた張本人…彼がいなければ伝説のライブハウス「照和」はなかったのである。そう考えるとわし等にとって、藤松さんは岸川さんと並ぶ恩人なのである。
恵介からマネージャーを引き継いで藤松さんに挨拶に行った。「いやぁ、門田君なら安心してまかせられる。頼んだよ。」まぁ藤松さんとは当然、顔見知りだし、上司になっても今までとおりの付き合いかたでいいのだろう。
「ところで、門田君。君は営繕という言葉を知ってる?」「えいぜん?ですか…」「そう、営繕。備品とか壊れたものがあったら修繕でしながら使うという意味ね。」「マネージャー、それって新しい備品を買わないってことですか?」「うーん、さすが!ものわかりがいいね、門田君」
いきなりのカウンターパンチ。さすが海千山千の屈強な戦士・藤松マネージャー。私は挨拶がてら備品の購入を頼むつもりだったのだ。照和オープン以来使っていると思われるボーカルアンプ、スピーカー、マイクとマイクスタンド。ライブハウスとしてバンドの立場として最低限欲しいものだった。それをいきなり「営繕」で済まされた。「ものわかりがいいね」で完全にはぐらかされた。
それならば…と、私は出演者全員に頭を下げて一ヶ月間ギャラの供出を頼んだ。平日4時間×5日間。20時間×700円で14,000円。土曜日9時間+日曜10時間。19時間×700円で13,300円。週の合計27,300円×4週間で109,200円。これでマイクとマイクスタンドを5セット新しく購入し、藤松マネージャーに報告に行った。あとのボーカルアンプは店側が負担すべきだとの思い込めて繰り出したパンチ。「あっ、そう」と、あの能面のようなすました顔で表情も変えず、そっけない態度。私のパンチは彼には全く届かなかった。
あと一ヶ月分あればボーカルアンプも買い換えられると思ったが、これ以上の負担を出演者に強いるのは気の毒である。ボーカルアンプは営繕でごまかしながら使うしかなかった。
まぁ、それでも出演者としては新しいマイクとマイクスタンドが来たことだけでも喜んでくれた。しかも自分たちで買ったものである。私が営繕しなくてもいいように大事に丁寧に使って欲しいと願っていた。
「みんなのギャラを集めるとか、誰もそんなことを思いつく人、いませんでしたよね。」
「うん、そうやね。そんなことしたら、まずワシが一番に反対しとったろうや。」
立場が変われば考え方も変わる。人は変わっていくものなのだ。
こうして私はマネージャーとしての第一歩を踏み出した。しかし、このあとに次々と起こる出来事は「照和」を大きく変えていくことになる。そして、私は最後のマネージャーとして「照和」の幕を自らの手で下ろすことになる…
あとがき
というわけで、これより照和マネージャー編に突入。マネージャーになってから、大きな出来事はライブハウスの産みの親である藤松マネージャーが辞めたこと。後ろ盾をなくした我々はその存在を店側からだんだんと疎んじられるようになり、馴染みの地下から4階に移され、挙句のはてに、ライブハウスは撤去となり、その幕が下ろされるのである。
その後、再三閉店開店を繰り返して来た「照和」。もし、あのまま続けていたら、その価値は今の数百倍の値打ちがあっただろう。ビジネスを優先に考えた時、ライブハウスは成り立っていかないのは解かる。採算を度外視して場所を提供する、それが「照和」という店の広告、営業につながると考えたのは藤松氏の手腕である。その意図をオーナーは何も理解してなかったことになる…とまぁ、追々とこういう話にもなって来る、これからの展開である。
いちろう 2009年1月12日
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