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「門田君、地下を改装することになったから…」藤松マネージャーから呼ばれて、そう聞かされた。「改装してレストランにするそうだ。反対したんだけどね、レストランは無理だって。」
照和のオーナーは東和大学、純真女子短期大学の福田学園の理事長様。照和のある天祥ビルのオーナーでもある。このビルの7階に事務所を構えている。「オーナーによからぬことを吹き込む奴がいてね。何度か考え直すように言ったんだけど…。最近、私も疎んじられてね。話を聞いてもらえないんだ。」それまで全権を任されていたマネージャーが、オーナーから信頼されなくなったら、こんなに働きづらいことはないだろう。この頃から藤松マネージャーは辞めることを考えていたのかもしれない。
「とりあえずライブハウスの方は、4階に移動して続けるように納得させたから。なんとか頑張ってよね。」藤松マネージャーは「フォーク喫茶照和」に人一倍愛着を持っている。ライブハウスを存続させるのは藤松マネージャーのささやかな抵抗でもあったのだ。我々はライブハウスの閉鎖を宣告されても文句を言える立場でないことは承知している。4階で続けられるだけでも有難いと思わなければいけないのだろう…。
4階に下見に行った。ただの事務所の間取りである。藤松マネージャーに無理やわがままは言えないが…「マネージャー、一つだけお願いしたいことがあります。控え室にする仕切りを作ってくれませんか?」「うーん、話してみるけど…、絶対に必要なんだよね。」「はい、バンドのいる場所がありません。それに楽器を保管する場所としても必要です。その仕切りの壁がステージのバックとしても使えます。」「わかった。作らせよう。」
移動して、入ってみて気づくことが多々ある。まず、外の明かりが邪魔になる。暗幕を手配してもらった。多分、学校で使わなくなった物だろう。十分に用意してもらった。この暗幕は外に漏れる音を遮断し、吸音の効果もあった。新しい什器備品は決して購入されることはない。地下で使っていた物をそのまま使うしかない。テーブル、椅子を並べる。地下の時よりステージも客席も広さに余裕がある。その分、ある程度客が入らないとかなりガランとした雰囲気になる。
客席からからステージを眺める。仕切り板が白々しく、殺風景の何ものでもない。この時期ボブ・ディランの初来日が決定した。レコード会社の知り合いに頼んで畳2畳ほどある特大のポスターを手に入れることが出来た。「ディランに会ったらよろしく」のコピーが書いてある。
ステージの後ろにディランがやって来て、まぁなんとか格好はついたかな、と。
照和の雰囲気が何か違っていると、戻ってきてずっと感じていたことがあった。その答えがようやく判った。以前は照和を通過点と考えるバンドがほとんどだったのが、今は照和が目標で到達点になっているのだ。照和を目指してきたバンドは、照和に出たことで満足している。以前の私たちのようにほかのバンドのステージを見ようとしない。だから、バンド同士が意識しあったり、刺激を受けたり、与えたりすることもない。妬んだり、いがみ合うことも喧嘩することも決してない。以前はそんな状況でもお互いが相手を認め、横の繋がりや連帯感があった。今は顔見知りのお友達程度なのだ。切磋琢磨という言葉は過去のものになっている。向上心がなければ、目指すものがなければ活力がなくなっていくのは当然の結果である。
もちろん、彼らなりに努力はしている、頑張っているが結果は出ない。お客さんが増えない、減っていくばかり…。これがみんなに対する現実の答えである。その結果が、照和の象徴だった地下のステージから、いとも簡単に4階に追いやられたのだ。
この状況を打破することを模索している時、モッズの森山達也が持ってきたアイデアにその方向性を見出した。しかしそれが、オーナーのライブハウスに対する思惑に拍車をかけることになるとは…。
あとがき
地下のステージがなくなることに一抹の寂しさがあった。しかし、それを打ち消すように4階のステージで「再出発する」という、新たな気持ちが私の中にあった。
4階に移動した時、消防法の問題で避難機具の設置が義務付けられた。そして、その訓練を現場責任者として、やらなければならなかったのだ。避難機具の名前が「オリローD」。そのままじゃん、と笑ってしまうようなネーミングである。レスキュー隊のように縄で降りるのである。「岩切、お前、身体が軽そうだから、落ちても怪我はしない。お前やれ!」「いやですよ。怖いじゃないですか。」「俺も怖い。しかも高所恐怖症だから無理だ。お前やれ!」「絶対、いやです。」「お前、サブだろう?マネージャーの言うことを聞け。」すったもんだの挙句、岩切は逃げ出した。仕方なく、私は死んだ気で4階の窓から飛び出した…。
いちろう 2009年1月24日
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