|
|
1970年物語に何度も登場する「開戦前夜」。当時、高校生だった森山達也と浅田タケシの二人。彼らを初めて見たのはKBCの「歌え若者」に遊びに行った時である。生ギターをかき鳴らし歌う森山。間奏でリード楽器に変身するベースの浅田。私に強烈な印象を植え付けてくれた。私がバンドで照和に入ったとき、彼らは先人としてステージに出ていた。校則のためか、坊主頭だった二人。キャップを目深く被り、うつむき加減にシャウトしていた。「俺らが日本のロックを変える!」森山はステージでそういい残して、「開戦前夜」を解散した。
それから数ヵ月後、大学に入った森山は満を持して「モッズ」を結成し、照和で華々しくデビューした。森山達也、浅田たけし、川嶋“ファンキー”一秀、白浜久、七田、樋口、後藤…。「モッズ」に参加した彼らにはそれなりに華があった。
博多のロックシーンに君臨する「サンハウス」は別格として、その後継者として山部善次郎率いる「田舎者」がその地位を確保していた。が、山善の言動で、その地位から脱落しつつあった頃に、頭角を現してきたのが森山達也率いる「モッズ」であった。
「サンハウス」と我々は知り合うことがなかった。唯一のチャンスは宮崎の天神山で行われる予定だった野外コンサートだった。福岡から「サンハウス」と「妙安寺ファミリーバンド」が呼ばれていた。このコンサートは残念ながら雨で中止となった。その夜、打ち上げ会場として予定してあったライブハウスで演奏することになった。私はこの時、はじめて「サンハウス」のステージを見た。やっぱり違う。私が見聞きしてきたロック・バンドとは雲泥の差である。ロックを志す誰もが、彼らに敬意を抱き、憧れる気持ちがよくわかった。
ロックをやっていると公言する彼らは「バンド」というものを、どう考えていたのだろうか?バンドを結成しても、いとも簡単に解散。メンバーが入れ替わる、辞めたり、くっついたり、離れたり…その繰り返しである。昨日あのバンドにいたギターが、今日はこっちのバンドで弾いていることなど日常茶飯事。自分が格好良く、目立っていれば「バンド」なんかどうでもいいのだろう。しかし、そんな彼らもオリジナリティや方向性に目覚めるとバンドの大切さを認識しはじめる。バンドの音は一朝一夕には出来ない。暗中模索、紆余曲折を経て本物になっていく。
サンハウス、田舎者、モッズなどバンドの色を持っていたバンドがどのくらい、いただろう?一年以上続けているロック・バンドがどのくらい、いただろう?練習の量、メンバーのチームワークがバンドの色を出していく。常に、今より上を目指すことが、より一層、バンドの色となり、その成果は確固たるバンドとして、ステージで輝くことになる。…まぁ、これはロックでもフォークでもバンドであれば同じだと思う。
いつものように照和が終わった後に、キヨさんと「信長」で飲んでいる。テーブルの向こうに知った顔がある。焼き鳥をにらみながら、一人でグラスを傾けている。酔客で賑あう店の中で、その男の周りだけ暗い影…これはイメージね。「モッズ」の森山がまた一人で飲んでいる。こういう雰囲気の時は、メンバーの誰かが抜けた時である。「森山!」大声で名前を呼んでも咎められないのが焼き鳥屋の良さである。森山はあたりを見回す。「森山!こっち、こっちたい。」私たちに気付いた森山に手招きする。森山は躊躇することなく、私たちの席にやってくる。焼き鳥の皿とコップを持って…。
「今日は、誰がやめたとね?」「えっ、なしてわかるとですか。」「わかるくさ。お前、メンバーが抜ける度に、ここで一人で飲みよろうが」「あれぇ、そうやったかいな…」「泣きながら、一人で飲みよう、お前を2,3回は見とうやね。」「誰も、泣きよらんですよ」「まぁ、よかたい。飲め飲め。ワシらが奢るけん、安心して飲め。」「焼き鳥も頼んで、良がですか?」「はぁ?ちったぁ元気が出たごたぁね。良かよ、好きなもんば頼み。」「それじゃぁ…、大将、あれとこれとそれば焼いて!」「お前、もしかしたら腹が減って、元気がなかったとか?」(この項つづく)
あとがき
森山との接点はそんなにあったわけではない。別府「杉の井パレス」に一ヶ月一緒に行ったくらいか?この時も「モッズ」を一時休止していた時期である。人の良さが災いしている。しかしその性格の良さが、年上のみんなからは可愛がられていた。森山の悪口を言う人間は誰もいなかった…。
会話が多すぎて、読みづらいかも知れない。会話が多いと博多弁で書くのが面倒になってくる。しかし博多弁で書かないと感情が移入ができない。入力ミスです、使い方が間違ってます、など画面に赤や緑の波線がいっぱい、カラフルな画面になる。ほっとけ!余計なお世話じゃ!と波線が出るたびに独り言を言う。
長くなったので途中でやめた。次回はこの後、すぐの続きから…。
いちろう 2009年1月29日
|
|
|
|