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「門田君、私、辞めることにしたから。後、大変だろうけどよろしく頼むね。」藤松マネージャーの退職は意外でもなんでもなかった。むしろ必然のことだった。ライブハウスが地下から4階に追いやられた時から、オーナー側の思惑が見え隠れしていた。「フォーク喫茶・照和」の発案者であり、陰日なたにフォーク喫茶を支えてくれていた藤松氏。その功績はオーナー側からは何一つ認められることはなかった。大きな後ろ盾を失くしたライブハウス照和…あと、どのくらい持つのだろう?
藤松氏の後任のマネージャーは我々には何も興味を示さなかった。むしろ邪魔な存在だと思っていた。隙あらばなくしたいと思っていたかもしれない。地下を改装したレストランに客を呼ぶためには若者たちの出入りは目障りで仕方ない。藤松氏が予想したようにレストランに客は入らなかった。どんなに改装しても天井の低さ、スペースの少なさは補いようがない。まして天神界隈での値段設定のミス…まぁ、これは藤松氏の受け売り。
若者でも人が多く出入りすることが店の活性化につながると考えていた藤松氏と大きな隔たりがある。自分の進言した意見が受け入れなくなり、疎んじられるようになった時、藤松氏は辞めることを決めていたに違いない。
バンドをしながらマネージャーも兼任していた私は、バンドを解散した。照和にとどまる理由がなくなった。この時、28歳。照和におよそ5年、お世話になった。6年もの間バンドを続けられたのも照和があったからこそ。心置きなくバンドを辞めた。音楽からの卒業の時期である。就職して社会に出て行かなければならない。その前に、立つ鳥後を濁さず。後任のマネージャーを探さなければならない。通常ならばサブをやっている岩切がマネージャーを引きつくのが常識なのだが、秋吉のときからサブを続けながら責任のあるマネージャーになろうとしなかった男である。案の定、打診しても予想通りの答え「いやです。」…彼は何を考え、サブ・マネージャーをしていたのだろう?甲斐よしひろも広津、小宮の下でサブとして照和にいたが甲斐には明確な意志と強いプロ志向を持っていた。
まぁ、嫌だと言う奴に後は任せられない。それなりのやる気と責任感がないとマネージャーは務まらない。まして藤松氏のいない状況では…。私なりに出演者の中から人選していった。何人かの候補者にしぼった時、「あっ」岩切をどうしよう?その候補者たちは若い。サブに年上の岩切がいたらやりにくいだろう…。よし、私がやめる前にその候補者の一人をサブにして岩切には辞めてもらうしかない…。
そんな折、新しい総支配人となったマネージャーから若い奴らが店の前にたむろして、レストランの客が入れない。エレベーターの前に吸殻がちらかっている。髪を染めたり、派手な服装したのが出入りしてる…などなど。レストランが不入りなのはライブハウスがあるからだ…彼はそのようにオーナーに注進していたのだろう。そして、ある日彼が私のところに意気揚々とやってきた。「4階は閉鎖することにした。オーナーの決定だ!」ついに、その時が来た。
あとがき
というのがライブハウス閉鎖のいきさつ。数年後「照和」の名前の大きさに気づいた経営陣が大々的に再オープン。二匹目のドジョウはいなかったようで、これも閉店。そして懲りずに再々オープン。「ミッキーマウス」の長尾慎一郎がマネージャーとして入ると話していた。「馬鹿。やめとけ。お前になにが出来る?」…結果を見ずに、長尾は早々と撤退。
藤松さんが辞めて、ワシが辞めようとしたこの時期が「照和」の潮時だったのだ。閉店したおかげで「照和」は伝説となった。そして次回は「1970年物語」も最終回。
いちろう 2009年5月3日
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