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ライブハウスの閉鎖宣告。11月いっぱいということになった。残りは2ヶ月あまり…。後任のマネージャーを決めるのはやめた。自分の手で「照和」の幕を下ろそうと決めた。
照和閉鎖の話はそれほど衝撃的なものではなかったようだ。出演者も冷静に受けとめていた。出演者が照和の現状を肌で感じていたのだから当然といえば当然。とりあえず新しい出演者を取らないと決めた。バンドには11月最後まで出演するように依頼した。
最後の2週間は日替わりでワンマン・コンサートをすることにした。月曜から金曜まで10バンドの出演者がそれぞれの曜日にコンサートを行う。6時から10時までの4時間弱のコンサート。形式は自由。ゲストに誰を出演させようが自由。最後の照和のステージを思いっきり楽しんでもらいたいと思った。前半の週は7時、9時の出演者。最後の週は6時、8時の出演者と決めた。
閉鎖を一番残念がっていたのは「ロック・ディ」が定着しつつあったロックバンドの面々。最後に照和を盛り上げてくれたが、オーナー側からのこじつけの標的にもされた。モッズ、ロッカーズは新しくできたライブハウス「ファクトリー」の出演が決まっていた。しかし森山が望んでいる「ロック・ディ」を開催してもらえるようなライブハウスではない。若いロッカーたちは自ら道を切り開いていくことになる。まぁ、いつまでも、森山に頼っているわけにはいかないだろう。ロッカーよ、荒野を目指せ!である。
アコースティックのほとんどのバンドはこれを潮時に学業に専念するのが多かった。バンドを続けたい者たちはヤマハ詣で…目標はポプ・コン。秋吉恵介を頼っていけばなんとかしてくれるだろう。
閑話休題…恵介から一度、ポプ・コンの審査員を頼まれたことがある。場所は福岡勤労青少年会館。現在、ももちパレス?ここで九州大会が行われた。当時大所帯のチャゲ&飛鳥とクリスタル・キング、この2つのバンドが断トツで入賞。私もこの2つには○をつけた。
恵介から「作詞をしてみないか」との話もあった。ポプ・コンには曲だけで応募することも出来るらしい。曲を聴きながら詞を書く。バンドを辞めてから詩を書く感性が薄れてしまっていた。苦心惨憺、書き上げた…。それから、この話は来なくなった。自分でもその結果には納得。
閉店の翌日にパーティを開く計画をした。これにはバンド出演者だけでなく、照和の最後の別れを惜しむ人なら誰でもと、お客さんにも声をかけた。当然、会費制。一人1000円で飲み放題食べ放題。このチケットも売り出した。
そして、11月30日木曜日。最後のステージは椿ゆう子。ワシ等が出演する前から照和に出ていて、この日まで照和で歌ってきた。「照和の母」稀代のソロ・シンガーである。弾き語りで歌ういつものステージとバック・バンドを入れたステージの二部構成で最後のステージを飾ってくれた。
椿ゆう子のステージが終わり、最後の余韻に浸っていた時にマネージャーが乱入してきた。今すぐ楽器を片付け、ここを明け渡せという。いやがらせの何物でもない。これには、さすがの私も切れた。「あんたじゃ、話にならん。俺がオーナーに直接話す。それまでは俺がここの責任者だ!あんたの指図は受けない。」
翌日、7階にあるオーナーの部屋に出向いた。はじめて面と向かったオーナーは上品な雰囲気を漂わせていた。東和大学、純真女子短大の福田学園の理事長・福田純子女史である。昨日の夜の状況、今夜の最後のパーティの開催、アンプやドラムの楽器の搬出時期などを話した。オーナーは静かに私の話を聞いていた。「そうですか、わかりました。今夜の最後のパーティはいいことですね。みなさんで楽しんでください。後のことはあなたにお任せしますからね。」拍子抜け…。意外にも、こちらの思うことをやんわり素直に受け入れてくれた。肩の力が抜け、冷静になった。「それから、もうひとつ…」。「はい、なんでしょう?」「ライブハウスの閉鎖は残念ですが…、長い間ありがとうございました。」頭を下げ、初めてお礼を言った。
5時に岩切、ティニーボッパーなどがパーティの準備に集まってくれた。チケットの売り上げ金を持って、デパート、名店街に行って閉店間際の惣菜を大量に安く買いあさった。ビールが運ばれてくる。テーブルに適当に並べる。6時過ぎから三々五々、人が集まりだした。
この日、偶然にプロモーションで博多に帰って来ていた「ARB」の田中一郎と石橋凌の二人が顔を出した。この最後のパーティの模様…どうだったのだろう?あまり記憶がない。みんな呑んで、食べて、歌った…別に感傷的になることもなかった気がする。…後日、「照和伝説」を書いた富沢一誠から取材を受けた時「何もなかったの?盛り上がらなかったの?」と聞かれた。うーん、酔っ払ったからそれなりに盛り上がったと思うけど…
翌朝、目が覚めたのは昭和通り沿いにあった、「スイート・ポテト」の本拠地のライブハウスだった。二次会でここになだれ込んで飲み続けたようだった。酔いが残ったまま、外に出た。太陽がまぶしかった。12月の晴れた青空が広がっていた…。(完)
あとがき
「1970年物語」最初に書き始めたのは1994年のメルボルンで発行されていた情報誌。今は2009年だから、足掛け15年。15年も掛かってやっと終わった。メルボルンでは誰も知らない話だからと調子に乗って書いていた。44歳のころの頭の中はまだ記憶がしっかりしていた思う。木下聖雅が「妙安寺ファミリーバンド」のホームページを開いたと言うから、今までの連載の分を掲載した。それから休み休みしながらの掲載。そしてここまでたどり着いた。この後、エピローグとして「最終章・照和伝説コンサート」を書いて完成。ということで次回からは最終章の始まりです。もうしばらくお付き合いを…。
いちろう 2009年5月10日
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