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1970年物語/第二話 by/門田一郎 1972年・「歌え!若者」 1972年。当時、福岡ではアマチュア・バンドを対象にしたラジオ番組が盛んであった。その中でKBC九州朝日放送の日曜日の夜に放送されていた「歌え!若者」はオーデションなしで誰でも出演することが出来る公開録音の番組で人気があった。 バンドをはじめて何度かこの番組を見に行った。我々のクラブがライバルと勝手に思っている西南大学に後のチューリップの財津和夫が率いる「フォー・シンガーズ」がいた。「ライラック」というサイモンとガーファンクルをコピーしていたノッポとチビのデュオがいた。ノッポの方は後の海援隊の千葉和臣でチビの方はチューリップの姫野達也だった。 私が一番印象に残っているのは「開戦前夜」という高校生のバンド。生ギターとエレキベースという二人編成で「俺達が日本のロックを変えてやる」と豪語し、坊主頭にアポロキャップを目深にかぶってロックを歌っていた。後のモッズの森山達也とシーナ&ロケッツに加入した浅田である。 今でも福岡でプロとして活動している岩切みきよしはこの番組に出る時、肝心のギターを忘れてきたという男で、開き直ってギターを持たず手拍子で歌ったという逸話がある。 我々がはじめて出演したのはメンバーが7名になって半年たった10月頃。夏休みにはメンバーがそれぞれ帰郷したから実質、練習したのはおよそ3ヶ月くらい、かな?そして人前で演奏をするのもこれが初めてであった。 狭いスタジオに愛好会のメンバーが応援?に来て、スタジオで大騒ぎしてディレクターの岸川さんから何度も注意をされた。1時間の番組で3バンドが出演するから1バンド3〜4曲を歌う。我々の歌は短いのが多く、その時は5曲歌わされ番組のエンディング曲である「今日の日はさよなら」の伴奏を受け持った。愛好会のメンバーが来ていたのでスタジオは大合唱となり大団円となった。 番組終了後、岸川さんに呼ばれた。…注意されたし、チューニングも悪かったし、ちょっとはめをはずしたからなァ。番組の途中からリーダーでとなった私は、緊張の面持ちで岸川さんの前に立った。 「お前たちね、面白かったよ。やっぱりバンドは楽しくなけりゃいかんね。」意に反して岸川さんの機嫌は良かった。 「あのぉ、怒っとらんとですか?」 「何を?それより今度、番組を全部お前たちにやるけん、出んか?」 「ハァ?それってワシらだけのワンマン・コンサートってことですか?」 「それでお前、何て返事したとや?」はじめての出演料を手にした我々は愛好会のメンバーも引き連れて焼き鳥に繰り出した。 「ノーちゃ、言えんめいもん。当然イエスたい。」と答えたものの、この時我々のバンドの持ち曲は今日歌った5曲しかなかった。 「門田さん、1時間て何曲歌わないかんとかいな?」これも番組の途中からバンドの司会を担当するようになった田原が聞く。 「ワシらの曲だったら、あと10曲はいるな。」と久保を見る。 「その番組があるとは、何時や?」久保が真剣に話すとどういう分けか周りが静かになる。それまで騒いでいたメンバーも私たちの話に耳をそば立てる。 「2ヶ月後の12月。クリスマスくらいかな」 「10曲か…。曲は出来るけどお前、詞を書っきるや?」 「まず、書けんめいや。書いても曲としてまとまらんやろ?」 「そしたらお前、どげんするつもりや?」…うーん、どうしようか。 |
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