1970年物語−1
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1970年物語

◆1972年--------
01 妙安寺FamilyBand
02 歌え!若者
03 学園祭
04 師走

◆1973年--------
05 小松ヶ丘
06 留年
07 家出
08 福大発12番線
09 部室
10 合宿所
11 照和
12 甲斐よしひろ
13 フラワージャンボリー
14 フォークソング・コンテスト
15 田原典明
16 ワンマン・コンサート
17 打ち上げ
18 交差点の世界
19 NHK福岡総局
20 石橋凌
21 七隈祭
22 21人の晩餐会
23 続・21人の晩餐会

◆1974年--------
24 思春期/甲斐よしひろ詩集
25 甲斐バンド結成
26 ピエロの解散
27 萩野和人と仲西永明
28 夏の合宿・杉野井パレス
29 都城・恐怖の開かずの間事件
30 五月
31 藤瀬竜二の父
32 赤木商店
33 オーディション
34 ミスター・ドーナツ
35 いざ、築港へ
36 Take It Easy
37 フライド・チキン
38 九州ツアー・サマーフォークコンテスト



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1970年物語/第十五話

          by/門田一郎


「田原典明」

「門田さん、あれはわざとしたっちゃろ?」第2回「全国アマチュア・フォークコンテスト」の九州大会で、出だしの歌詞をど忘れしてしまい、イントロで思わず「忘れたーっ!」と叫んだのが受けを狙った演出だとみんなから言われた。見かけはどうであれ、私はシャイで真面目な性格だからコンテストで受けを狙うなど思いつくわけがない。しかし、みんながそう思っていたのだから審査員もあれがミスだとは気づかなかったのかもしれない。コンテストでのミスは致命的なのだが我々は九州代表に選ばれた。…どうも、この事がきっかけで私はいざという時に開き直るようになった。開き直ると人間、強くなる。矢でも鉄砲でも持ってこい!てな、ふうに。

全国大会は東京・中野サンプラザ・ホールで行われる。東京に行くのは高校の修学旅行以来2度目である。しかもメンバー全員がはじめて飛行機に乗る。スチュワーデスがみ〜んな美人に見える。用もないのにあちこちのボタンを押したり、機内をあちこちとうろついては注意を受けたがる。スチュワーデスがシートベルトや緊急非難などの説明のために颯爽と通路に立つ。そんな彼女たちを我々は口笛と大きな拍手で迎える。「…膨らみが足りない時はここから息を吹き込んで…」という救命用具の説明を聞くと、「へぇ、オッパイの膨らみが足りん時はあそこから息ば入れればいいげな。」などと、人の迷惑を考えず馬鹿な冗談を大声でしゃべっている。「うるさいぞ、お前等!」岸川さんがついに怒った。

新築されたばかりの中野サンプラザ・ホールのステージは広かった。博多にはこんな大きなステージはない。リハーサルでは音が吸い込まれるように会場に消えていく。まるで野外で演奏しているような気分である。この年、チューリップの「心の旅」と海援隊の「母に捧げるバラード」が相次いでヒットした。そして彼等の出身地である博多のライブハウス「照和」が注目を浴びはじめていた。その照和に出演しているということで我々のバンドはこのコンテストで注目されていた…らしい。

「よーし、こん前の調子で気楽に行くぜ。それと田原の分まで頑張ってトロフィーを博多に持って帰るぜ。」居てもいなくてもバンドには影響がなかった田原が先日、バンドを辞めた。彼も私と同じで今年、進級が出来ずに2年を留年していた。バンドの活動が頻繁になりはじめて家に帰るのが遅くなったりして、長男である彼は親からバンドを辞めて学業に専念するように言われていた。
「僕は、バンドが出来ても卒業するまでやけん、今のうちに辞めた方が良いと思うっちゃん。」「お前、卒業て言うても後2〜3年あるやないか。もしかしたら、もっとかもしれんけど…」
「うわぁ、そげんこと言わんとってよ。でも、みんなプロになるつもりやろう?そげんな時に辞めることになったら、みんなに迷惑かけるやない。」
「プロになるとか、そげんことはまだ思うとらんよ。」
「ばってん、今度のコンテストがきっかけになるかも知れんちゃろ?」
確かに「リンドン」のように入賞してレコード会社やプロダクションの目に留まるとプロへの道が拓けるかもしれないと心の片隅にそういう思いはあった。
「バンドは辞めるけど、これからもバンドの手伝いはさせてもらうけんね。」
メンバーで唯一人、車と免許を持っていた彼は楽器の運搬など、こまめに手伝ってくれた。ある時「楽器が入らん」と言って、いきなり車のドアをはずした。シートも取りはずして楽器を詰め込んだ後、車のドアを取り付ける。…ここまでしてくれる奴は他にいない。「先に合宿所に帰っとくよ。」と言って窮屈な運転席に体をまるめて乗り込む。…ステージに一緒に立たなくても田原はいつまでも我々バンドのメンバーなのである。

全国大会での審査結果の発表、我々はステージの真ん中に陣取っていた。
「おい、『春…』という字が見えるぜ。」発表する審査員の手元の紙を覗き込む。
「『春』がつく題名の曲を唄ったバンドは他にもおったもんねぇ…」
「ばってん、もしかしたら、もしかするぜ。」などなど相変わらず、時・所を構わず私語が多いバンドである。「…続きまして、銀賞は『春でした』を唄いました九州代表・妙安寺ファミリー・バンドのみなさんです。」スポットライトに照らされて我々はステージの前に進み出る。審査員席の岸川さんの笑顔が見える。銀賞は2位である。だから、前回3位(銅賞)だったリンドンを超えた。超えたけれど我々のところにはレコード会社はもちろん、プロダクションの何処からもスカウトの話はなかった。なかったけれど銀賞で賞金20万円と副賞商品を獲得したからいいのである。賞金の20万円はバンドではじめて手に入れた大金であった。賞金は現金で貰ったのでホテルに帰ると早速メンバー6人で分配する。一人当たり3万円、当時の一ヶ月分の生活費である。もう1〜2人バンドを辞めさせようかなぁ、などと欲に目が眩む。残りの2万円はもう一人のメンバーである田原の賞金である。

このコンテストの第3回大会に『甲斐よしひろ』が出場し全国大会に進んだ。後に『甲斐バンド』のデビュー・メンバーとなるギターの大森信和とベースの長岡和弘に加え、ピアノに「妙安寺ファミリー・バンド」の久保、パーカッションに「春風馬亭」のまさるというバック・バンドを従え『ポップコーンをほおばって』を唄って九州代表として見事に金賞を射止めた。第5回大会に我々は再出場したがまたもや銀賞に終わり『甲斐』を超えることが出来なかった。





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