1970年物語−1
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1970年物語

◆1972年--------
01 妙安寺FamilyBand
02 歌え!若者
03 学園祭
04 師走

◆1973年--------
05 小松ヶ丘
06 留年
07 家出
08 福大発12番線
09 部室
10 合宿所
11 照和
12 甲斐よしひろ
13 フラワージャンボリー
14 フォークソング・コンテスト
15 田原典明
16 ワンマン・コンサート
17 打ち上げ
18 交差点の世界
19 NHK福岡総局
20 石橋凌
21 七隈祭
22 21人の晩餐会
23 続・21人の晩餐会

◆1974年--------
24 思春期/甲斐よしひろ詩集
25 甲斐バンド結成
26 ピエロの解散
27 萩野和人と仲西永明
28 夏の合宿・杉野井パレス
29 都城・恐怖の開かずの間事件
30 五月
31 藤瀬竜二の父
32 赤木商店
33 オーディション
34 ミスター・ドーナツ
35 いざ、築港へ
36 Take It Easy
37 フライド・チキン
38 九州ツアー・サマーフォークコンテスト



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1970年物語/第十八話

          by/門田一郎


「交差点の世界」

1973年の秋、このころ私は日本楽芸社という楽器屋でアルバイトをさせてもらっていた。一階の店頭でアコースティック・ギターを担当していた。二階はエレキ部門でここは「あかんべぇ」のリーダー・谷村与志雄が担当していた。あかんべぇは九州産業大学のバンドでラムや田舎者、ジャップなどのバンド仲間のリーダー的存在であった。九州産業大学はロック・バンドが多く、この時期の照和はフォークが主流のため出演しているバンドは少なかった。

日本楽芸社に改原さんという世話好きの人がいた。私や谷村にバイトの口をきいてくれたのも彼である。その彼からレコードを作らないかという話しがあった。 「LPのレコードを作ろうと思うっタイ。金は全額会社が出すけん、心配はいらん。オムニバスであかんべぇとラム、ピエロと妙安寺この4バンドで3曲づつ、全部で12曲。値段は…、作ってから考える。」…私は改原さんのこんなアバウトなところが好きだった。

「あかんべぇ」はオリジナルを主にしたリズム&ブルースのバンドでメンバーは4人。ギターの谷村、ドラムの霜田(賢ちゃん)、ベースの佐野(佐野チン)、ギターとボーカルの秋吉(恵介)。照和の中で大人の雰囲気をもった異色のバンドであった。特に作詞・作曲・ボーカルの恵介の作る詩には光るものがあった。後に海援隊が「僕、疲れたよ」、甲斐バンドが「フライのブルース」という彼の曲をそれぞれプロになってレコーディングしている。

「ラム」は産大ではめずらしくフォーク・バンドである。顔に似合わない高音のハーモニーが美しいバンドで、比山(きよし)・池浦(均)・倉本のそれぞれがオリジナルをつくり、ボーカルをとる。彼らの性格に反比例した暗い歌ばかり作っていた。75年には倉本が抜けた後、斎藤(トミー)が加入。ダーク・ダックスにハーモニー良さが認められ、「つくり噺」でプロ・デビューを果たすが、私たちは時期尚早と反対した。彼らにはプロに必要な個性とパワーが無さ過ぎた。

「ピエロ」は福大で我々の後輩のバンドになる。4年の井手(雅英)・3年の上野(俊二)・ベースの3年の安部(俊輔)で結成し、『チューリップ』の穴を埋めるようにあっという間に頭角を表わした。しかし同年代のメンバーはとかく諍いが絶えない。ベースの安部が抜け、メンバーチェンジを余儀なくされた。井手がベースにまわり、1年の飯沢がキーボード、そして後に「甲斐バンド」のドラムとしてプロになる1年の松藤がリード・ギターとして加入した。再生ピエロはボーカルの俊二の人気が絶大でメンバー・チェンジは何の影響もなく不動の位置にいた。

後日談であるが改原さんは「甲斐よしひろ」にもレコードの話をもちかけたが彼に否応もなく断られた。この頃の甲斐はプロ指向に徹底した姿勢を持っていた。照和のウエイター以外、音楽に関係ないバイトは何もしなかった。ヤマハのポピュラーソング・コンテスト九州大会で入賞した際に全国大会では版権をヤマハに委託するという条件が嫌で全国大会の出場を棄権した。

この頃、博多には本格的な録音スタジオがなかった。そこでレコーディングは完成されたばかりの「福岡県勤労青少年会館ホール」(現在では「モモチ(百道)パレス」と名前が変わった)を一日借り切って行われた。それぞれ編成が異なるバンドなのに一日で終わらせるという。…改原さんのこんなアバウトなところが好きだった。

レコーディングはまずカラオケ(演奏)を先に作る。ドラムやベース、ギターをミキサーがバランス良く録音する。演奏を録音した後、ヘッドフォンを耳にボーカルを録音する。書いてしまえば2〜3行で終わる作業である。 あかんべぇ→ラム→ピエロ、最後がわれわれ妙安寺ファミリーバンドという順で録音することになった。われわれは夕方6時にホールに来るように言われていた。録音中であり音を立てないように会場に入ると、恵介が最後の曲を唄っていた。…朝8時に一番乗りしたあかんべぇがまだやっている!?
「改原さん、この調子じゃ今日中に終わらんよね?明日も録音する?」
「いいや、一日しか借り取らんけん今日中に終わらんば、いかんとさ」
「へっ?ラムもピエロもまだやろう?俺達も録音すると?」
「あたりまえたい。ここは12時に出て行けばいいけん、なんとかなるちゃ。」 …改原さんのこんないい加減なところは嫌いだ!

押しに押して夜の11時にわれわれの順番がきた。残りは1時間弱、それで3曲も録音するという。人数も楽器も一番多いバンドである。マイクのセッティング、ミキシングも大変である。改原さんがミキサーと何か話している。
「門田、悪いけど時間がないけん、一発録音で行くけんね。」
ようするにステージのライブをそのままに録音しようというのである。これは同じレコードでも仕上がりに大いにハンディがある。あかんべぇは実に8時間以上も費やして録音したのにわれわれを一時間弱で済ませようとしているのである。
「福大発12番線」「待っています」「春でした」をそれぞれマイクテスト、リハーサル、本番と3回つづ唄って終了。初めてのレコーディングと意気込んでいたのだがなんとはなしに終わってしまった。





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