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1970年物語/第二十二話 by/門田一郎 「21人の晩餐会」 この時代アマチュアのコンサートはバンド自らが企画し、会場手配やポスター、チケットの印刷などに走り回らなければならなかった。そしてバンド仲間は必ずそのコンサートの応援に駆けつけていた。その当時の照和のメンバーの間には、ライバルではあるけれど運命協同体のような意識があった。 1973年の暮れにその照和のメンバーと「21人の晩餐会」というコンサートを行なった。 まもなくプロデビューする「リンドン」、あとに続く「甲斐よしひろ」、九州産業大学の雄「あかんべぇ」、人気上昇中の「ピエロ」、頭角を現わしてきた「ジェフ」。そして我々「妙安寺ファミリーバンド」の6バンド。バンドのメンバーが全員で21人。12月でクリスマスに近いということと、リンドンのアマチュア最後のステージということもあって「21人の晩餐会」と、このコンサートに名前をつけた。 「会場は電気ホールにするけんね。」電気ホールは天神を南北に走る渡辺通りの一番南にあるコンサートホールである。正式名称は…なんだっけ?忘れた。キャパ(収容人数)は2階席併せて約1500席。1000人以上入るホールはこの時代、他に市民会館の大ホール(1800席)があるだけだった。 「1500人のお客さんを集めてくさ『21人の晩餐会』ば伝説のコンサートにしようぜ。」と意気込んで動き出したとたんに難関が待っていた。電気ホールは九州電力の持ち物で借りるのにいろんな制約があった。電話で申し込むとけんもほろろに断わられた。そこでKBCの岸川さんに口を利いてもらって、初めて話を聞いてもらった。まず個人の申し込みでは貸すことは出来ないという。そこで「福岡大学フォークソング愛好会」の主催ということにした。 「クラブ主催の場合は顧問の先生の印鑑が必要だからね。」と言われた。 「顧問?そんなのうちのクラブにおった?」…いた、いた。今まで知らなかったけれど、顧問の先生は確かにいた。 電話をかけてその旨を伝えると快く承諾してもらい、教授の部屋に出かけた。 「初めてだな君等に会うのは。顧問がいなくてもクラブの方は頑張ってるらしいな。」 教授はトレーニング姿で自転車をこぎながら心拍数を測定している。彼は3年前に大学に新設された体育学部の若い教授であった。 「うちのクラブに顧問の先生がいるの知りませんでしたよ。」と正直に話した。 「そうだろうな。俺も名前だけでいいと言うからなっただけでね。君等のクラブがどんなクラブで何をしているのか知らないもんな。」相変わらず自転車を漕いだまましゃべる教授である。「顧問の先生がいるとわかっていたら、コンサートやコンペの時に招待したんですけど…。」「いやぁ、俺は運動の方で音楽のことはよう解らんからなぁ。そうそう印鑑は机の上にあるから勝手に押して行ってくれ。」 次の難関は先立つ資金。出演する6バンドからそれぞれ2万円づつ無理矢理徴収したお金は会場費の内金でほぼ消えてしまった。ポスター、チケットの印刷代が不足している。チケットを売らなければ金が入らない。あと印刷代を含めてPA(音響機器)代、照明代、会場費の残りなどでおよそ30万以上かかる予定である。 「よし、スポンサーを集めよう。」ポスターの下の部分、チケットの裏側、コンサートの協賛として名前やロゴを載せるという条件でスポンサーを数社つかまえて印刷代を賄った。このコンサートのポスターやチケットに博多ではアマチュアとして初めての試みである写真を入れたポスターとチケットを作った。そしてポスターやチケットを印刷に回したのは私にとってこれが初めてである。…この写真入りのポスターが100枚ほど大量に残った。コンサート終了後、ものは試しで一枚百円で売ってみた。これがまた飛ぶように売れたのには私自身驚いてしまった。何でもやってみるもんだ。 「入場料は400円にするけんね。」この値段設定はみんなを恐怖に陥れた。アマチュアの相場といえば税金の対象から外される99円で、400円は当時としては破格の値段である。 「高くない?」「高くない!これだけのメンバーが出るんだし、リンドンはこれが最後のステージ。じぇったい入る!客は来る!それに…」 「それに?」「400円じゃないと大赤字になるったい!」 |
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