1970年物語−1
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1970年物語

◆1972年--------
01 妙安寺FamilyBand
02 歌え!若者
03 学園祭
04 師走

◆1973年--------
05 小松ヶ丘
06 留年
07 家出
08 福大発12番線
09 部室
10 合宿所
11 照和
12 甲斐よしひろ
13 フラワージャンボリー
14 フォークソング・コンテスト
15 田原典明
16 ワンマン・コンサート
17 打ち上げ
18 交差点の世界
19 NHK福岡総局
20 石橋凌
21 七隈祭
22 21人の晩餐会
23 続・21人の晩餐会

◆1974年--------
24 思春期/甲斐よしひろ詩集
25 甲斐バンド結成
26 ピエロの解散
27 萩野和人と仲西永明
28 夏の合宿・杉野井パレス
29 都城・恐怖の開かずの間事件
30 五月
31 藤瀬竜二の父
32 赤木商店
33 オーディション
34 ミスター・ドーナツ
35 いざ、築港へ
36 Take It Easy
37 フライド・チキン
38 九州ツアー・サマーフォークコンテスト



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1970年物語/第二十三話

          by/門田一郎


「続・21人の晩餐会」

3000枚ほど印刷したチケット(通常キャパ数の倍は作っていた)を持って税務署に行く。入場税の支払いである。現在は確か3000円まで無税になっていると思うけど当時は100円以上は税金の対象になっていた。当然売り残ったチケットを持っていくとその分の税金は返してくれる。納税済みのスタンプをチケットに押してもらった後、チケットを配布する。照和で手売りが得意なバンドには徴収した2万円分を現物で返す。
「げえーっ、そんなの有りか?」というクレームを聞き流し、その上に50枚のノルマを課せる。1バンド100枚で600枚が配られた。

プレイ・ガイドにチケットを置きに行く。ここもなかなか簡単には受付けてくれない。なんだかんだと手続きが必要だった。3軒の有力なプレイ・ガイドにそれぞれ100枚づつ置いてもらう。後は週に1、2回顔を出してチケットを補充する。…うーん、3000枚のチケットは配るだけでも大変だわ。

スポンサーや関係者用に招待券を100枚用意する。この分は「招待券」とスタンプを押しておけば税金の対象外になる。あとはクラブの後輩やファンになってくれてるお客さんに預ける。喫茶店やレコード店などに置いてもらう。とにかくチケットを配ってまわる。それでもやっと2000枚を配っただけ…全部売れて2000人以上のお客さんが来たらどうしようと心配したい…そんなことは杞憂というもの、きっと半分は売れ残るはず。

ポスターは「ポスター部隊」を編成する。喫茶店やレコード店など人が集まるお店に貼ってもらう係と闇夜に紛れて電柱に貼ってまわる係。当然、後者の方が重労働であり、お巡りさんに見つかると逃げなきゃいけない。無断で市中にポスターを貼るのは条例違反なのである。本当は届け出をしてポスターに責任者の名前を明記して許可のスタンプをもらわなければいけないのだ。終った後は貼ったポスターを速やかに回収するという条件も入っている。夜間部隊の努力を嘲笑うかのように外貼りのポスターは破られたり、落書きされたり、雨に濡れて流されたり、別のポスターが上から貼られたりとその労が報われることが少ない。

次に出演順を考えなければならない。音楽やってる奴はわがままなで目立ちたがりである。…まぁ、そうじゃないと成長しないのも確かである。1バンド30分のステージで3時間のコンサートである。実際は前半と後半に分けて休憩を入れたり、バンドの入れ替えの時間を入れると4時間弱になる。遅くとも9時半に終るためには5時半に始めなければならない。という事は開場は遅くとも30分前の5時。お客さんの集まり具合によっては早める事になる。

大トリはデビュー前の「リンドン」と決めていた。これにはみんな異存はない。5時半のオープニングは人が集まりつつある時間で誰もが敬遠したがるが「ジェフ」に決める。続いて「ピエロ」…文句は言わせない、何たって彼等はクラブの後輩だからね。中トリが「あかんべぇ」で休憩に入る。
後半のオープニングは「妙安寺ファミリーバンド」。そしてリンドンに先を越されて燃えている「甲斐よしひろ」が続き、リンドンに華々しく花道を飾ってもらう。

プロのコンサートがあると照和のバンドが前座に使われる事が多かった。前座でも「プロのバンドを食ってやる」という意気込みが強かったし、地元でそこそこの人気があるし実力もあるバンドだから、後から出てくるプロのバンドもうかうかしておれない。この頃から照和を中心に博多の音楽が中央から注目され「日本のリバプール」と呼ばれるようになっていった。

コンサートは成功した。1階はほぼ満席、2階席にもちらほら。1500人前後のお客さんが来てくれた。しかし、この日一番乗りが悪かったのが我々「妙安寺ファミリーバンド」。私がこのコンサートを企画し、走り回っていたのでバンドのほうが疎かになってしまった。練習はしていたんだけど客の入りや資金の回収などに気を取られて、一番肝心なバンドの方で燃焼出来なかった。「すまん、こんなこともうやめる。」打ち上げの時にメンバーに頭を下げた。

「リンドン」はベース・田中信昭、ギター・田中一郎、ドラム・伊藤かおるの三人で、このコンサートが終って上京した。そして翌年の74年に『陽気な雨』でデビューした。あまり聞かない名前でしょう?残念ながら彼等は3年後の77年に解散。その後、田中信昭は博多に戻ってきたけど夢が捨て切れず再上京。82年に「バッヂ」と言うバンドを組んで『二人のフォトグラフ』で再デビューをしたけど、これも2年後に解散。それ以降彼の消息は聞かない。
田中一郎は石橋凌と組んで78年に「アレキサンダー・ラグタイム・バンド(ARB)」を結成し『野良犬』で再デビュー。その後、石橋凌の役者活動に反撥して脱退。「甲斐バンド」に参加。「甲斐バンド」解散後、ソロで活躍。「イカ天」の審査委員なんかしてたな。
一番大人しく、人懐っこかった伊藤かおるは家が合宿所の近くだったので、自転車に乗ってよく遊びに来ていた。80年上田が脱退したのを期に「チューリップ」に加入。85年には安部、姫野と共に「チューリップ」を脱退し「オールウェイズ」を結成し『好きさ』で再デビューした。





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