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1970年物語/第二十五話 by/門田一郎 「甲斐バンド結成」 甲斐よしひろは悩んでいた。プロの話は着実に進んでいたが、今のままソロ・シンガーとしてデビューするかどうかを…。音楽の流れはもうアコースティックのフォークの時代は終ろうとしている。ステージで自分の音楽を表現するには一人では限界がある。デビューするとしばらくの間はチューリップの前座で唄う。新人のソロ・シンガーではインパクトがない。プロとしての実績がないとバックバンドなどつけてはもらえない…バンドを作ろう! チューリップがデビューする時、財津和夫はハーズメンの安部俊幸、ライラックの姫野達也、そのころロックをやっていた海援隊…信じられないでしょう?私も残念ながら海援隊のロックは聞いたことがない。聞かなくてよかったかも…からドラムの上田雅利を引き抜いた。引き抜かれたハーズメン、ライラックは解散を余儀なくされたし、海援隊はバンドの編成を変えざるを得なかった。そのため照和では財津の身勝手な行動に非難が集中した。 甲斐よしひろは慎重に行動した。バンドを結成するために、デビューするのを半年ほど延期した。この半年近く、甲斐のステージにはピエロを辞めた安部俊助がベースを手伝っていた。手伝っていたが彼にはプロになる意思はなかった。そんな時、甲斐の相談相手になっていた長岡和弘がベースとしてバンドに参加した。長岡と仲の良かった三輪車のベースだった大森義和は福岡大学の薬学部の4年に進級したがギターに取り憑かれ大学を中退し、リードギターとしてバンドに参加した。ドラムがいない…。財津の二の舞は出来ない。一度ドラムとして加入した人間とはどうしてもフィーリングが合わない。妥協は許されない。トラブルを覚悟で彼を切った。捜しあぐねていた時に人気絶頂だったピエロが突然解散した。リードギターの松藤が甲斐のもとに駆けつけてきた。「甲斐さん。僕、バンドに入りたい…。」松藤の音楽センスを買っていた甲斐は彼をドラムとして参加させた。デビューまで秒読み体制に入っている。 「門田さん、話があるっちゃけど…」甲斐から呼び出しを受け、ステージを終って飲みにいった。照和の2、3軒隣にあったスタンド・バ^―のカウンターに腰掛けて、すぐに甲斐が話しはじめた。 「単刀直入に言うね。久保さんにバンドに入ってもらおうと思いようとやけど…」突然の話だったが、あまり驚かなかった。久保と一緒にやっていれば誰でも彼の音楽センスには驚かされる。レコードを2〜3度聞けばその曲を完璧にコピー出来たし、曲の流れにあった独自のギター・コードを創作するし、あらゆる楽器を器用にこなせる。甲斐が全国大会で金賞を取ったコンテストで久保はピアノで参加していた。 「久保に話した?」「いいや、まだ。まず、門田さんに話を通しとこうと思うたけん。」 「じゃぁ俺も正直に言うね。まず、俺は久保がお前と一緒にやると言うなら留めんよ。」 甲斐がメンバー探しで苦労しているのを知っていたし、甲斐のことは好きだったからなぁ…「ほんとに?久保さんが抜けたら妙安寺はどうする?」一応、甲斐もそれを心配している。 「それはお前が心配せんでも良かよ。久保が抜けたら妙安寺は解散すると思うけど、あいつがプロになれるなら、そっちの方がいいかも知れん。」 私がプロになりたいという意思はそんなもんであった。成れればいいなぁという程度のものである。個人的に私の音楽センスは皆無なのだから…。しかし、久保がいてバンドがあるからプロに成れる可能性があると信じていた。 私の返事を聞いて甲斐も緊張を解いた。彼としたら多分に勇気がいる相談だったと思う。 「でもね、甲斐。久保を入れたい気持ちは解るけど、久保は難しいよ。お前と一緒で久保も音楽に関しては相当わがままな奴やけんね。いつまでもお前をフォローしていくとは思えんやね。そのうち久保も自分の音楽をやりたいと思うやろうけんね。」 これは別に甲斐を脅かす意味で言ったわけではない。老婆心ながら…アドバイスである。 「うん、解った。とにかく久保さんと話してみる。」 数日してから久保が話しかけてきた。当然のことながら他のメンバーはこの話を知らない。「門田。お前、甲斐から俺をバンドに誘うって相談されたっちゃろ?」 「うん、相談された。お前次第って言うてやった。それに『久保と一緒に組むのは大事(おおごと…大変)』て、アドバイスばしてやったやね。」 「バカタレ、なんが大事か…」久保の言葉に悩んでいるような深刻さはない。 「それで、お前はどうするとや?」久保がどう決断を下したか、だいたい予想はつく。 「どうするもこうするもなかくさ。即、断わったやね。お前がおって萩野やカツ(藤永)・セイカ(木下)と妙安寺ば続けて行くて言うてね」…予想通りの答えである。 後から聞いた話であるが甲斐は久保の他に「アップルツリー」の石橋秀樹にも声をかけたらしい。こういったところに甲斐の焦りが窺われるのである。久保や凌を入れるとバンドとしての厚みは出来るが甲斐の色が薄れてしまう。 バンドの音は一朝一夕には生まれない。特に甲斐の場合はアコースティック・ギター一本で自分の音を表現してきた。ソロの時のように曲によってバックバンドの編成を変えることは出来ない。常にドラム、ベース、リードギターの音が加わる。それぞれのパートを任されたメンバーは改めて甲斐の曲を理解し、演奏しなければならない。その表現によって、ただのバックバンドになるのか甲斐バンドの一員になるのか言葉以上の難しさがある。甲斐にしても今までの歌い方を変えなければならない。彼のもつ詩の細やかさは演奏の音が大きくなると伝えることは出来ない。それは甲斐にとっても大きな賭けであった。 甲斐バンドはスタジオを借りて猛練習を始めた。バンドの怖さは練習でうまく行ってもステージに立つと音を出すバランスが分からないことである。特に甲斐バンドのようにバンドとしてステージの経験が全くないということは不安でもある。練習も大事であるがステージの場数を踏むことが必要になって来る。 デビュー曲の「バス通り」は大ヒット曲にはならなかったが甲斐バンドの名前を全国的に広めた。しかしソロ・シンガー甲斐よしひろの歌を知っている博多のファンはデビューしたばかりの甲斐バンドのサウンドに馴染めなかった。 |
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