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1970年物語/第二十八話 by/門田一郎 「夏の合宿・杉野井パレス」 博多から別府に行くには鹿児島本線で北九州の小倉まで、小倉からは日豊本線で別府まで九州の北側と東側の海沿いを汽車に揺られて行く。機材や楽器を乗せたトラックは内陸部の甘木、朝倉を通って湯布院、日田を経由して阿蘇ー別府と九州を横断する「やまなみハイウェイ」に出て、湯煙が立つ別府の街を望観しながら走る。 我々は夏休みの間、季節労働者として温泉の街・別府にある「杉野井パレス」という大きなホテルのプールサイドで毎日演奏することになった。TNCテレビ西日本のディレクター・藤井伊久蔵さんからの仕事である。藤井さんはKBC九州朝日放送の岸川さん、RKB毎日放送の野見山さんと共に福岡のアマチュア・バンドを見守り育んでくれたディレクターの一人である。博多からプロになったバンドはすべてこの3氏のお世話になっている。藤井さんはテレビ局の事業部のイベントとして会社を説得して、毎月1回福岡は明治生命ホールで「レッツ・ゴー・フォーク」を、北九州は小倉井筒屋のホールで「サンデー・フォーク」というアマチュアのためのコンサートを開催していた。我々はそのどちらにも出演させてもらっていた。 照和のステージを休んで特訓をしようとしていたので、この仕事は我々にとって「渡りに舟」であった。しかもおよそ1ヶ月以上泊り込みの仕事だから生活費の心配はいらない。何と言っても大きいのはこの仕事のギャラで新しく買い揃えた楽器やアンプなど機材の支払いが出来る事である。そのために喜んで照和のステージを2ヶ月ほど休む事にした。その代わり私はしばらくの間、安定した生活をさせてもらった日本楽芸社のアルバイトを辞める事になった。夏休みの忙しい時期に1ヶ月以上も仕事を休むとなるとクビになるのも仕方ない…。突然辞める事になったのでピエロを解散して意気消沈している井手にアルバイトするよう叱咤激励し、日本楽芸社には私の後釜に井手を雇うように双方に話をつけてきた。 この杉野井パレスの仕事は泊り込みであるがホテルの部屋に泊らせて呉れるのではなかった。ホテル側は我々の直接のクライアントではないのだから…当然だな。ホテルに近い旅館に泊って通うことになっている。機材をホテルに搬入し終わるとトラックは博多に帰っていった。我々は楽器を手に町を見物がてら旅館まで歩いて行った。さすが湯の町・別府である。至る所に無人の銭湯がある。料金箱にお金を入れると誰でも自由に温泉に入れるのである。効能書は…覚えている訳がない。神経痛に効くとか皮膚病に効くとか…とにかく温泉だから身体にいいのである。 旅館に着くとお世話になるオネエサン達(旅館ではどんなことがあっても、こう呼ばなければいけない事になっている。)に挨拶を済ませる。部屋に通されると昔のままの「宿屋」である。部屋の区切りは襖一枚。きっと水戸黄門のロケにそのまま使えるくらい、風情がある「宿屋」である。「藤井さん、よくこんな宿を見つけましたねぇ?」「なぁ、いいだろう風情があって…。多分、別府で一番安い宿屋じゃないか。」それが本音。藤井さんは正直な人である。それでも俗に言うアゴ(顎…食事)・アシ(足…旅費)・マクラ(枕…宿泊)付きでギャラ(出演料)は別に出るのだから文句は言えない。雨戸は開けっ放しだから寝る時には蚊帳を吊る。…ねぇ、こんな旅館。今時ないでしょう?蚊帳の中で横になると田舎の親戚のおばさんちに泊りに来たような錯覚に陥る。我々は当然ながら不規則な生活に慣れているから朝は弱い。ところがオネエサン達も我々を親戚の子供のように扱う。いきなり部屋に入ってきて、蚊帳をはずし布団をはがし我々を叩き起こし朝飯へ追い立てる。給仕をしてくれるオネエサンも「寝起きで食べれない」と言っても聞く耳は持たない。残さず食べ終わるまで席を立つ事を許さないのである。 我々のほかに二グループ…「かたつむり」は永隈晋一、今林清隆、黒田、上村の4人編成のバンド。「開戦前夜」を解散して「モッズ」を結成するまでソロで唄っていた「森山達也」…が一緒で各々30分ステージを一日三回演奏する。ホテルのプールサイドに行って自分たちで機材をステージにセッティングし、時間になったら、なんの予告もなく勝手に演奏を始めるのである。そしてその日の演奏が終ると機材を収納場所に片づけて宿に帰るのである。ステージの合間は自由行動であるが、せいぜい一時間ほど。『杉野井パレス』はとにかくデカイのである。コーヒー風呂や、泥風呂などいろんな種類の風呂が七つも八つもあって、おまけにサウナ、蒸し風呂もついている大浴場が二つもある。これが日替わりで男湯女湯に入れ替わる。大浴場に行くだけで休憩時間は終ってしまう。それでも一日に二回は温泉に入っていた。…私の人生の中で一番清潔な時代だったなぁ。昼食はホテルのレストランの食券が毎日手渡される。ここの食い物がまずい。あんまりまずいので私は毎回、仕方なくビールばかり飲んでいた。プールサイドでまともに演奏を聞く人間は少ない。屋外だから思い切り音が出せる。それでも生バンドが珍しかった頃だから大きな音に誘われて三々五々、人は集まってくる。当然リハーサルはないから演奏しながらミキシング(音量などを調整する)をする。ステージの回数を重ねる毎に課題の音のバランスが感覚的に解ってくる。コーラスも人の音を頼らず自分のパートをしっかりと唄えるようになる。それぞれのパートの音のバランスが良くなればハーモニーとなる。仲西のドラムもベースもリズムが安定してくる。リズムが安定すると歌は唄いやすい。みんながそれぞれ自分の役割を果たしていく。一日三回のステージだからこの仕事(合宿)で100回以上のステージをこなした…バンドは練習するほど自信になる。自信は余裕となってステージで「音」が「楽」しめるのである。 夕食が済むと私と久保は曲作りをする。仲西が加入したことやエレキに持ち替えたことで、新曲は作っていない。今までの曲をアレンジしただけである。これから作る曲が新しい「妙安寺ファミリーバンド」の音になるのである。私は久保がギターを弾きながら私の詞にメロディをつけていくのを隣で聞いている。「久保、お前ね。少しは俺の書いた詞の内容にあったメロディを作らん?」と注文を出す。「良かと良かと、こっちの方が面白かろうが」「ばってん、これ『冬の朝』という詩ぜ。そのメロディはビーチ・ボーイズ風の夏の雰囲気やないや。」「しょうがなかろう、お前がこんな季節に冬の詞やら書くけんたい!」…そりゃそうだ。我々は今、真夏のプールサイドにいるんだもんね。 |
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