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1970年物語/第三十一話 by/門田一郎 「藤瀬竜二の父」 福大フォークソング愛好会で私より一学年下に藤瀬竜二という男がいた。藤瀬は小柄な人間にありがちな、せっかちで落着きがなく、ちょこまかと動き回り、ウケを狙った冗談もワシ等からは無視され後輩達からは呆れられ、それでもめげずに元気に明るくギターを抱え、部室や合宿所に来ては我が物顔に振る舞っていた…そんな憎めない男だった。 「門田さん、藤瀬が死んだって知ってました?」 「えーっ!い、何時?何で?何があった?」コンサートのリハーサルの休憩時間。楽屋を訪ねてきた井手から藤瀬の死を聞かされた。井手がクラブの幹事の時、藤瀬は副幹事だった。 「去年、就職して長崎に転勤になっていたんですけど、半年ぐらいで倒れて入院してたらしいんですよ。癌だったらしくて入院した時はもう手遅れの状態で…。」本人は癌とは知らずにこの世を去ったという。享年22歳。「死」という言葉に程遠い環境にいると思っていた年代である。身近な、しかも自分より年下の人間の死は私の中で少なからず衝撃を受けた。 「井手、クラブのメンバーで連絡がつく奴をすぐに集めろ!明日、藤瀬の家に行こう。」 藤瀬の死から数ヶ月は経っていた。私たちは彼の死を知らなかったその期間を悔やんだ。私たちが彼の存在を失念していたこと…。友人として彼に何もしてやれなかったこと…。 藤瀬の実家は北九州市の福岡寄りにある中間市で歯科医院を開業していた。車3台に分乗して来たメンバー10数人が藤瀬の遺影の前に深く頭を垂れ、彼の死を悼んだ。事前に連絡しておいたので藤瀬の父親が私たちに会ってくれた。 「あいつには胃潰瘍だと言っていたから、入院していても本人は死ぬとは思っていなかったんだろうね。最後まで笑っていたよ。」息子の死に対して心の整理がついているのか思い出を語るように優しい口調で話してくれた。彼の死を知ったばかりの私たちにとって、それは子供を亡くした親の重くて深い悲しみを含んでいるように聞こえた。 「竜二君の死を今まで知らなかったことを僕らは彼の友人として恥ずかしく思ってます。」私たちは藤瀬に詫びるように父親に詫びた。 「いやいや、こちらこそ竜二にあなた達みたいな仲間がいる事を今まで知らなかったことの方が恥ずかしいよ。それにあいつも死ぬ気はなかったんだから身辺整理なんか何もしてなくて、竜二の大学時代の友人には何処にも連絡が出来なくて…。竜二もやっとこれで仲間に見送ってもらえて喜んでいるでしょう。」と遺影に向かって言った時に微笑みを浮かべた瞳の中にうっすらと涙が滲んでいた。 「ところで皆さんにお聞きしたいんですが、大学時代の竜二に彼女はいましたか?」唐突な質問に意図が理解出来なかった。 「どういうことでしょうか?」 「竜二が付合っていた彼女がいたかどうかですよ。」私たちは顔を見合わせて首を横に振る。「残念ながら私たちが知る限り、藤瀬に彼女は一度もいなかったと思います。」…父親はしばらく無言で宙を見ていた。そして「そうか…、竜二は女を知らずにあの世へ行ったか…」と、つぶやくように言った。 「竜二が想いを寄せていたというか、竜二が好きだった女もいませんでしかた?」…範囲が広がった。 「藤瀬も男ですから好きな女の子はいたでしょうが…。とにかく彼は『ギターが恋人』みたいで、いつでもギターを弾いていましたからね。堅物とは思いませんでしたけど奥手でしたから…彼の口から女の話は聞いた事はないですね。でも、どうしてですか?」 「いやぁ、親馬鹿ですよ。もしそういう娘がいたら竜二の代りに想いを伝えて、竜二の思い出として何か贈り物をしようかと思っていたんですよ。」父親は自嘲するように笑いながら言った。…藤瀬のバカタレめ!親より先に死にやがって。子供は決して親より先に死んではいけないのだ。親を失した子供の悲しさは淋しさからくる悲しさである。それに比べて子供を失した親の悲しさはどれほど辛く悲しいものか…。笑いかけて来る遺影に向かって私は心の中で学生時代の時のように藤瀬を叱っていた。 藤瀬の家を後にして車の中はしばらく沈黙が続いた。 「…参ったね。あの父親には」「父親って、あんなことまで心配するんですかね?」 「そりゃぁ、子供が若くして死んだら、同じ男としてそう思うんじゃないか?」 「でも藤瀬が好きな女に贈り物するってのはどうですかね?」 「まぁな、あれは行き過ぎだろうな。藤瀬が好きでも相手が藤瀬の事を想ってなかったら、思い出を押し付けられて大迷惑だもんな。」 「でも、あんなことを正直に言える藤瀬の親父って、ものすごく人間的でしたね。」 「多分俺達だったから、素直に男親として話せたんだろうな…」 「俺が死んだら俺の親父も皆にあんなことを聞くやろうか?」 「うーん、お前の場合は逆に迷惑かけた女の数を聞くんじゃないか?」 「うわぁ、やめて下さいよ。」…私たちは各々遠くに離れて暮らす父親へ思いを走らせていた。 * 皆様、あけましておめでとうございます。遅くなりましたが新年のご挨拶を申し上げます。今年は西暦2000年。20世紀最後の年です。1950年生まれの私はきりが良く満50歳。「半世紀」生きてきた事になります。半世紀→半生期→反省記という意味のない流れで今年一年なんとなく反省してみようという気になっております。それにしてもメルボルン在住でこの一年の間に半世紀を迎える(迎えた)人間がなんと多いことか。やっぱりこれは皆で集まって大々的に「半世紀会」をしなくちゃ。自分の半生を振り返って反省し、残りの半生をこれからの半世紀にかける…書いているうちに思わぬ方向に文章が勝手に流れております。「これではダメだ」と、さっそく反省。 * さて本題の『1970年物語』。いつまで続くのか書いてる本人さえわからない。当時の事を思いつくまま、思い出したもの順に色褪せていく過去の記憶を引っ張り出して書いているものですから、最近はだんだん年代が前後している。読んでいて気にならなければ気にしないで下さいませ、本人も気にしないようにしますから…。 * 昨年は母親の37回忌でした。次の法要は13年後の50回忌となります。50回忌の法要は死者の存命中を知っている人間にとっては慶事になるそうです。悲しみを乗り越えて50年生きてきたご褒美ということでしょうか。その時には当然ながら母の親兄弟は死んでいるだろうし、我々兄弟も何人生き残っているか…。 * 「親より先に死ぬな!」という私の親父の言葉は20年前に言った本人が逝ったので消滅。私が48歳で死んだ母親の歳を越えた時に「親の歳より前に死ぬな!」となって復活。親父が死んだのは74歳、ちょっと難しいかもしれないけれどこれを越えるまで私は生きよう。母の50回忌にはお祭りをしよう。よーし!21世紀に向かって、これからは憎まれっ子になって世に憚るのだ。 ※これは2000年1月に書いたものです。(いちろう) |
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