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1970年物語/第三十七話 by/門田一郎 「フライド・チキン」 昔、ケンタッキー・フライド・チキンでバイトをするとチキンが食べ放題という噂で、ミスター・ドーナツでバイトをしていた私は同じ食べ放題でもチキンの方がいいなぁとずぅーっと憧れていた。オープンした頃のKFCにはビールが置いてあって、店内でチキンを食べながらビールが飲めたのに…違う!今回はケンタッキー・フライド・チキンの話ではないのだ。 「フライド・チキン」は私が作った企画グループ(と言えるほど大袈裟なものではない)の名称だった、という事を誰も知らない、覚えてない。私だって甲斐よしひろの詩集を見直していた時にこの名前を発見して、「うわぁ、これは何だ!なんと陳腐な…。」と恥ずかしさと後悔に苛(さいな)まれたくらい、忘れていたのだから…という具合に、以前情報誌に寄稿していた時、本題に入る前にくだらない事を書いて、字数を稼いでいた事を思い出した。 我々、妙安寺ファミリーバンドを照和に勧誘するため、合宿所まで来てくれた広津君が辞めて、新しく照和のマネージャーになったのが小宮真一である。自称甲斐よしひろのマネージャーでもあった。甲斐がレコード会社に送るデモ・テープを作るため、深夜の照和で録音するのを見学したのが私と小宮の最初のつながりである。それ以来、小宮とフライド・チキンという名前でコンサートを企画した。主催者が個人名より、架空であっても団体名の方がなにかと便利であったからである。「21人の晩餐会」の時、電気ホールに会場の申し込みに行ったが、実体のないフライド・チキンという名前では貸してくれなかった。ほとんど門前払い同様の扱いを受けた。この時はKBCの岸川さんの仲介で「福大フォークソング愛好会」という実体のあるサークルの名前で借りることが出来た。小宮が企画するコンサートはすべて甲斐絡みである。甲斐よしひろのアマチュア最後のコンサートは少年文化会館を満員にした。唯一、赤字を心配しないでよかったコンサートでもあった。私はこのコンサートに出番はなかったので、一人コツコツと甲斐の詩集を編纂した。手書きしたものを印刷に回し、手作りで製本した。甲斐の人気はすさまじく、詩集はコンサートの終了後に瞬く間に売切れてしまった。追加注文を受けたが、あの苦労をするかと思うと…断った。 鹿児島で人気、実力共にトップにいた「ケチャップ」は地元で初めての自主コンサートを計画していた。ワンマン・コンサートをするほどの動員数はない。そこでポップ・コンで知り合ったピエロや都城のコンサートで鹿児島まで知名度を上げた我々に出演依頼が来た。相談を受けた私と小宮は考えた。往復の旅費、宿泊費などギャラ抜きにしても彼らにかける負担は大きい。負担を軽くするにはコンサートを増やせばいい。どうせ南九州に行くなら2、3ヶ所でコンサートをやろう。旅費は3等分の負担ですむ。機材は博多から借り出し運搬する。地元の負担はそれぞれの会場費や宿泊、食事の手配。我々は出演者は当然ノーギャラ。こうしてアマチュアの分際で南九州でのコンサート・ツアーが計画された。 小宮と私は打ち合わせのため宮崎に出かけた。鹿児島のコンサートは「ケチャップ」主体で行われる。彼らは私たちの提案を快諾してくれた。後の2ヶ所は我々、主導のコンサートになる。とりあえず宮崎にコネがあるのは都城に妙安寺を呼んでくれた千夢企画しかない。彼らに相談を持ちかけた。そして彼らの協力の下、鹿児島の翌日は日南でコンサートを行うことに決定した。日南の翌日は宮崎でのコンサートが内定していた。これは福大フォークソング愛好会の特別メンバーであった、中村女子短期大学の「くれよん」の紹介で合歓サークルが協力してくれることになった。ツアーに参加するのは妙安寺ファミリーバンド、ピエロ、それにデビュー前の甲斐バンドを加えた。スタジオでの練習を繰り返す甲斐バンドにステージで演奏をさせようという目論見があった。デビュー前であるがプロとしての制約がある。地元福岡では軽々しくステージには立てない。南九州でのコンサートであれば、ということで参加が決定した。コンサートではそれぞれ地元のバンドも出演してくれることになって、日程、ツアーのスケジュールが大筋で決まった。 「門田さん、僕、照和の仕事があるけん、先に帰ろうと思いようとやけど。」 打ち合わせがうまく行って宮崎に用がなくなった小宮はそう言い出した。 「何や、お前それ。先に帰るて何や?帰るなら俺も一緒に帰るくさ。」多少ムカッと来た私。 「ばってん、門田さんは21を越えとろう?僕、飛行機で帰ろうと思いよっちゃん。」 「当然、俺は21を越えとうくさ。それが飛行機とどういう関係があるん?」 小宮はうっふっふと含み笑いをし、さも得意そうに言った。 「スカイメイトというのがあってくさ、21歳までなら半額で飛行機に乗れるっちゃん。それで今から、そこの旅行代理店に申し込みをしてくるけんね。」 小宮は私の返事を待たずにドアに向かった。…小宮はこういう奴だったのだ。だが、しかし、ちょっと待て、小宮は確か21を越えてるはず… 「あはは、あはは、歳がばれた。スカイメイトだめになった。門田さん、やっぱり一緒に汽車で帰ろう?」私が大笑いしたのは言うまでもない。待ち合わせ時間を決めて、私は小宮をおいて一人宮崎の街を歩き出した。 付録・妙安寺友達辞典
♪今は、何を言ってみても、嘘のような、そんな気がして…名曲「うそ」である。ロックバンドが多かった九州産業大学で異彩を放ったフォークバンド「ラム」のメンバーである。陽気で明るいキャラは比山きよし、池浦ひとしの追随を許さず、「ラム」の持つ曲が醸し出すバンドの雰囲気と倉本明彦のステージでのしゃべりは聴く者を魅了し、また惑わせたものである。彼もご多分に洩れず、当時のファッションであるパンタロンにロンドンブーツを愛用していた。合宿所に初めて遊びに来た時、靴を脱いだ彼を一瞬見失った覚えがある。パンタロンはぞろびき(…裾を引きずること)、家の掃除をしてくれた。現在でもそのキャラは変わらず、「福大フォークソング愛好会のOB」として弟・タカオとともにOB会などの世話役をしていてくれているようである。
「いつも兄がご迷惑をおかけしています。」と几帳面に初対面の挨拶をしたのが、偉大な兄を持つ賢弟の倉本タカオである。福大フォークソング愛好会に入部した彼は真面目な性格ゆえに幹事に推されたようである。はっきり言って、タカオからの下の後輩はほとんど知らない。 タカオは記録魔、資料収集家で「一行の真実、十行の作り話」で1970年物語を書く私にとって天敵である。「門田さん、また適当に書いてるな」と密かにほくそ笑み、兄・明彦に話す。 陽気な兄は私の心のを痛みを省みず、得意そうにそれをBBSに書き込んだりする…。 ところで、タカオ。藤瀬は竜一?竜二?どっちだった? |
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