| TOP | 1970年物語 | 1970年物語2 | ぼくのくぼ物語 | 友達辞典 | SONGS | 資料 | PHOTO | DISCOGRAPHY | LINK | BBS | CONTACT |


妙安寺FamilyBand-TOP

PHOTOS
DISCOGRAPHY
資 料
SONGS
1970年物語
1970年物語2
ボクガクボぼくのくぼ物語
妙安寺友達辞典
LINKS
BBS



「1970年物語」は我々、妙安寺ファミリーバンドの出来事を中心に書いています。
当然、その出来事にはそれぞれに関わった人たち…福岡大学フォークソング愛好会や
照和の仲間達。「1970年物語」で書ききれなかった彼らを、ここで改めて紹介し
たいと思う。ただし、ここに書いたものは30年前、青春していた頃のエピソードで
あり、私から見た彼らのほんの一片である。



有馬エリ


照和の全盛期、マスコミに「照和の静御前」と書かれた。「小粒で数少ない美人の部類に入る女性シンガーである。」…これは小粒の女性シンガーと数少ない女性シンガーと美人の部類に入る女性シンガーということをまとめて書いたらこうなった。
1976年「化石」でレコード・デビューした。有馬エリのことを一般の人は誰も知らないから売れなかったのだろう。暗い照和のステージで一人弾き語りをする有馬エリ、同性の女性ファンが多かった。女性ファンにとってはカリスマ性があったのかもしれない。
彼女は私たちを「南公園動物園バンド」と呼んで一人悦に入っていた。我々のオリジナル曲「ゆきどまり」を気に入って、ステージで歌ってくれた。
私と久保、谷村(あかんべえ)、そして有馬エリで「寅年良い子の会」を結成。結成したけれど何もしなかった。ただ照和で最年長の年代だったというだけの会であった。


井手雅英
(ピエロ)



リグビー(長岡和弘、長井)で愛好会デビュー、即照和に出演。ビートルズのコピーをやっていた…この頃ビートルズをコピーするバンドが多かったなぁ。愛好会2代目?の幹事を務める。リグビー解散後、上野俊二、安部俊輔とピエロを結成。井手のオリジナルのセンスに驚いた。メロディの美しさ、俊二とのハーモニーの上手さ…最高だったね。私はこの頃のピエロがいっちゃん好きなのである。安部が抜けた後、ベースに回り、音楽センス溢れる若い飯沢、松藤が加入し人気、実力共、ピエロの全盛期を迎える。このまま行けば…と誰でも思っていた。ああ、それなのに…あれも青春だ!

井手の親父殿がやっていた久留米の割烹でうちのメンバーとその他数人、美味しいものを思いっきり、食べさせてもらった事がある。美味しいものをご馳走になった記憶はあるのだが…なんでそうなったかが思い出せない。井手のホームページに行くと彼の歌が聴ける。50‘sシンガー、いいなぁ。相変わらず歌が上手い。でも、「松丸」って?丸は体型かなって、判るんだけど…


川合健一
(三輪車)



♪七隈、空飛ぶトンビが言うた 今年ゃ福大の勝ち年だ〜

福大の応援歌をアレンジした「七隈トンビ」で一世を風靡した「三輪車」は、西南大の財津和夫率いる「チューリップ」に対抗できる唯一の愛好会のバンドだった。…チューリップなき後、西南大のバンドは皆無に等しい。辛うじて「ウィンドミル」ってのが、いたなぁ。

三輪車は川合と小川(ギター)それに風変わりな田中(ベース)の三人組。後に田中が抜けてベースに大森が入った、と思うのだけど…。私は川合と小川と同じクラスだったので授業の後、彼らの練習をよく見ていた。品行方正な学生バンド然としてた川合は四年になるとあっさりとバンドを解散した。…四年からバンドを始めたどこかのアホと大違いなのだ。

バンドを辞めても音楽が好きなのは辞められない。ピアノでの弾き語りを始めた。バンドを辞めても目立ちたがりは辞められない。我々のワンマン・コンサートとなった「歌え!若者」に「出せ!出してくれー。」と矢の催促。同級生だし、長い付き合いだし、学生時代最後の思い出として出して上げよう。それから30年、お互い音信不通だったけど、去年メールをもらったし、井手のHPにも書き込みがあった。ここにもおいで。

柏村道雄
(妙安寺ファミリーバンド)



ミチは一年の時、上野俊二、田原典明と三人で高天原(タカマガハラ)というバンドを組んでいた。俊二が唄う二ール・ヤングの「ヘルプレス」で一世を風靡した…この言葉を簡単にしかも安直に使いすぎると反省。ベースは田原だからミチはリードギターだったんだろう?

「ミチ、この曲は俺が唄うから、お前がリードギター。」愛好会のギターの神様・久保からリードギターを譲られたミチは欣喜雀躍。「やっと、ボクの実力を認めたんやね、久保さん。これからは久保さんの出番はないと思うちょきんさいね。」気は小さいが言う事は大きい。「そんじゃぁ、今度のステージでこれをやるけんね。」「ちょ、ちょっと、待ちんさい。物には順序というものが…」否応なしにステージで新曲を上げる久保。

「ミチ、大丈夫か?」「任しんさい。なぁも、心配いらんて」密かに…合宿所では密かに何も出来ない…特訓を重ねたミチ。「次は新曲です。久保が唄います。リード・ギターはミチです。曲は『風鈴』」…songsで風鈴を聞いてやって下さい。間奏でミチがとちります。これはまぁよくあることです。ミチがすごいのは、それ以降ステージで必ず同じところをとちるんですね。それはあたかもとちることが譜面に書いてあるようにです。


木下聖雅
(妙安寺ファミリーバンド)



照和に出るようになって、みんなは夏休みも冬休みも帰省しなくなった。一回ぐらいは他のバンドにステージを代わってもらえるが、一ヶ月もなるとそうはいかない。74年の春休みに聖雅が一週間位の予定で帰省した。そして、彼はそのまま帰ってこなかった…。

合宿所に電話がなかった…今、考えるとすごいことだが当時はそれが当たり前のように思っていた。だからバンドへの連絡や伝言は照和を窓口にしていた。聖雅は運良く実家で倒れ、入院し、腎臓を摘出したという。合宿所で倒れていたら…きっと死んでいたな。

長期の療養も必要になり、我々は聖雅抜き、4人でステージやコンサートをこなした。「聖雅がいなくてもなんとかなるもんやねぇ」「いなくてもいいんやない」なんてことを言っている時に聖雅の親父殿から手紙が来た…。

「読めるや?」「いいや、なんて書いとうか、じぇんじぇん判らん。」時代劇に出てくるような巻き手紙に筆で書かれた草書体。「聖雅の親父はワシらを誤解しとうね。こんな字が読めるほど賢いと思うとうとかいな」「門田。お前の親父、坊主やけん読めるっちゃないや?」「そうやね」と私の親父に手紙を見せた。しばらく手紙を見ていた親父は一言「判らん」さすが、私の親父だ。そんなこんなで聖雅の親父殿には返信の手紙を出さずじまいで30年が経ったのである。


倉本明彦
(ラム)



♪今は、何を言ってみても、嘘のような、そんな気がして…名曲「うそ」である。ロックバンドが多かった九州産業大学で異彩を放ったフォークバンド「ラム」のメンバーである。陽気で明るいキャラは比山きよし、池浦ひとしの追随を許さず、「ラム」の持つ曲が醸し出すバンドの雰囲気と倉本明彦のステージでのしゃべりは聴く者を魅了し、また惑わせたものである。彼もご多分に洩れず、当時のファッションであるパンタロンにロンドンブーツを愛用していた。合宿所に初めて遊びに来た時、靴を脱いだ彼を一瞬見失った覚えがある。パンタロンはぞろびき(…裾を引きずること)、家の掃除をしてくれた。現在でもそのキャラは変わらず、「福大フォークソング愛好会のOB」として弟・タカオとともにOB会などの世話役をしていてくれているようである。

倉本タカオ


「いつも兄がご迷惑をおかけしています。」と几帳面に初対面の挨拶をしたのが、偉大な兄を持つ賢弟の倉本タカオである。福大フォークソング愛好会に入部した彼は真面目な性格ゆえに幹事に推されたようである。はっきり言って、タカオからの下の後輩はほとんど知らない。
タカオは記録魔、資料収集家で「一行の真実、十行の作り話」で1970年物語を書く私にとって天敵である。「門田さん、また適当に書いてるな」と密かにほくそ笑み、兄・明彦に話す。
陽気な兄は私の心のを痛みを省みず、得意そうにそれをBBSに書き込んだりする…。
ところで、タカオ。藤瀬は竜一?竜二?どっちだった?


田原典明
(妙安寺ファミリーバンド)



メンバーが7名いた頃、地元福岡出身は田原と私だけだった。久保は愛媛、萩野は鹿児島、柏村は山口、聖雅は鳥取、カツは熊本。夏休みになると、みんなそれぞれの故郷に帰って行った。残された二人は暇を持て余していた。「門田さん、どげんしよう?」「おう、田原か。二人で練習でもするか?」「二人でやっても意味なかろうもん。」「それもそうやね。」ということで飲みに行くことになった。

赤坂門に出来た『戦国焼き鳥・家康』一号店に行った。「焼き鳥やら初めてやが」「俺もそうたい」「なんば頼んでいいか判らんけん、右から頼んでいこうか」壁にかかった短冊にメニューが書いてある。「どこまで食べたかいな?」「うーん、どこまでやったかいなね。」生ビールから日本酒になって相当飲んでいる。「お客さん、12時が閉店やけんよろしゅうたのんますね。」6時の開店と同時に入ったから5時間が経っていた。「あと一時間しかない。ラスト・スパートせにゃ。」

この経験を生かし、田原と焼き鳥屋に行くと「豚バラ50本と白タレで50本!」を最初に注文して飲み始めるようになった。


山田コウジ
(ジェフ)



「かーさんちゃ、かーさんちゃ(本人は門田さんと呼んでいるつもり)。知っちょうね?

貴ノ花(初代の大関貴ノ花)が死んだっち。」と部室に入るなり興奮状態で話す、井上陽水と同じ田川出身の山田コウジ。「はぁ?貴ノ花が死んだ?いつ?」「昨日、交通事故で死んだっち。大騒ぎしちょうよ。」「本当に貴ノ乃か?」「いや、横綱の輪島やったかいなぁ。」「お前、もしかしてそれってボクシングの大場のことやないや?」「えっ?大場…?輪島じゃなくて…?」世界バンタム級世界チャンピオン大場政夫。強かったなぁ。試合の度に減量に苦しむ大場はまるで「明日のジョー」に出てくる力石のようだった。

大関貴ノ乃→横綱輪島→輪島(フェザー級チャンピオン)→大場と連想ゲームのように死んだ人間が変わっていった…これ以降みんなからアホ扱いされた。

ビートルズを歌わせると山田コウジはジョン・レノンになる。ジェフのオリジナル曲はどうでもいいけど彼のジョンになった歌声をもう一度聴いて見たいと今でも思う。

山内譲治
(ジェフ)



ジェフのリード・ギターだったジョージは車を持っていた。

愛好会が七隈祭で初めてフォーク喫茶を出店した時、準備のためみんなで第四食堂で泊り込みをした。準備のためというのはあくまでも名目でみんなで夜中じゅう騒いで遊んでいた…小松が丘に合宿所を借りる前の話。「腹減ったー。うどんば食べに行こうじぇ。」ということになりジョージの車に乗り込んだ。「全員乗れるかいな?」「うーん…、全員乗ろう。」ジョージの車はステーション・ワゴンだった。前に後ろに荷台に…十数人。「うわぁ、重い。走らん。」野芥にある『うどんウエスト』まで車はよたよたと走っていった。

「げーッ、門田さんこれ見て。」ジョージが丼をみつめたまま小声で囁く。見ると丼の中にゴキブリがぷかり。「こりゃぁ、文句ば言わなぁ…」カウンターの向こうを見ると、強面のお兄さんが二人。大人数で来たワシらを迷惑そうに、そして忙しそうにうどんを茹でている。「ちょっと、怖そうやね。」「う、うん。」文句を言うのを諦めたジョージは、ゴキブリを箸でつまむとカウンターの上に出し、うどんを食べ始めた。…うーん、ジョージは育ちの良い子なんだなぁと思った。




© since 2003 Nyoanji Family Band/当WEBサイトの画像およびテキストの無断転載はお断りいたします。2017-12/14 (Thu) 07:33 /15379 th